未開社会と文明、せめぎ合いの果てに
《公開年》2015《制作国》コロンビア他
《あらすじ》1909年と1940年のアマゾン流域での出来事を並行して描く。
【09年】白人に追われた先住民族の生き残りで若き呪術師のカラマカテ(ニルビオ・トーレス)の元に、重い病気を患ったドイツ人民族学者テオドール(ヤン・ベイヴート)が、ゴム農園の奴隷生活から救った従者のマンドゥカと共に訪れた。二人が求めた助けを一旦拒否したカラマカテだが、強力な幻覚作用をもたらすという幻の薬草ヤクルナに興味を持ち、それがあるというコイワノ族の村を目指してカヌーで旅立つ。
【40年】孤独に生きて年老いたカラマカテ(アントニオ・ボリバル・サルバドール)は、知恵も記憶も失った「チュジャチャキ(無の存在)」となっていた。そこにアメリカ人植物学者エヴァン(ブリオン・デイビス)が訪れ、夢が見られないためヤクルナが欲しいと言う。それはかつてのテオドールの著作に記述されていた。テオドールはジャングルで死んだが、同行者がドイツに原稿を送って出版されたと聞かされ、ヤクルナの記憶を失っていたカラマカテだが、記憶が戻るかも知れないとヤクルナ探しの旅に同行する。
【09年】テオドール達とカラマカテの旅は在来の部族集落を訪れながら、背を向け合うかのように、先住民族と西欧人の対立の構図を見せていく。コンパスという文明の利器を先住民族に奪われたテオドールは「伝来の知恵が滅びる」と憂える。荒れた河でも荷物を減らそうとしない彼をカラマカテは「白人は物欲が全て。科学がもたらすのは暴力と死」と非難する。
そして物資調達のため布教地区に立ち寄る。そこでは白人の宣教師が親のいない先住民族の子どもたちを保護して寝食を与え、教育活動をしているようだった。しかし後に宣教師が少年らを虐待している実態を知り、三人は宣教師を殴り倒し、少年らを逃がして自らも逃げた。
【40年】ヤクルナ探しの旅をするエヴァンとカラマカテは、先住民族に捕まってしまう。そこには神の子と名乗る長と病気の妻がいて、呪術師のカラマカテは幻覚作用によって彼女を病気から救った。しかしその祝宴の場は狂気じみたカルト集団の様相を呈して二人は逃げた。生き延びるためにエヴァンは荷物を捨て、唯一残した手回し蓄音機で音楽を聴いた。
【09年】テオドール達三人はコイワノ族の生き残りが暮らす村に着いた。徐々にテオドールの身体は衰弱していくが、そこでヤクルナに出会う。しかしその村ではヤクルナを育てていて、その覚醒作用に依存するような暮らしをしていた。聖なる植物に対する不遜な態度に怒ったカラマカテはヤクルナを焼いてしまい、住民が混乱する中、カラマカテを置いて二人はカヌーで逃げた。
【40年】エヴァンとカラマカテは、かつてカラマカテがヤクルナを焼いてしまった集落に到着した。そしてエヴァンは自生のヤクルナを飲んだ。すぐに幻覚作用が訪れる。広がるジャングルと蛇行する大河、神秘的な力によって大自然と一体になり、気づくと一人になりカラマカテの姿は消えていた。
《感想》アマゾン流域で一人暮らす呪術師のカラマカテの元に、約30年の時を隔ててドイツ人民族学者とアメリカ人植物学者が訪れた。民族学者は重い病から解放されることを願い、植物学者は目的を隠しながらも学問的興味と好奇心から、共に幻覚作用をもたらす薬草ヤクルナを求め、カラマカテを伴って旅に出る。
旅の途中、自然と共に生きてきた先住民族が、それを破壊し搾取しようとする西欧人に呑み込まれていく様や、キリスト教の布教活動が過激にカルト化した姿に出会う。それは西欧人の侵略的暴力性を視認する旅であり、聖と俗がせめぎ合う世界でもあった。また、現代科学で解決できない問題を、古来の非科学的な呪術や幻覚剤で解決しようとする二人の学者は、迷える文明人の象徴なのだろう。
そこに「自然対文明」「先住民対西欧人」という構図は見えるが、映画としては、世に生き方は一つではなく、他者を認め敬うことが大切。人間と自然、人間同士の共存と調和こそが人類を幸福に導くといったメッセージなのかと思える。今一つ響いてこなかったが、更に深い問いかけが隠れている気もした。
独特の空気は感じるし、モノクロ映像は美しい。だが、大河の流れに合わせたかのようなテンポと、混沌としたエピソードに迷い込んで未消化のまま、というのが正直な感想だ。