人間の原初的な性と生と死
《あらすじ》現代文明から隔絶され、原始的な農耕と土着信仰に支えられて生きる南海の孤島クラゲ島。二十余年前、この島は暴風と津波に襲われて、嵐が過ぎると根吉(三國廉太郎)の神田に真っ赤な巨岩が屹立していて、神への畏敬と深い信仰を持つ島民らはこの凶事の原因を詮議した。
そもそも根吉は父の山盛(嵐寛寿郎)が実の娘に産ませた私生児で、一家は「ケダモノの家」と呼ばれていた。区長の竜立元(加藤嘉)は、島の神事を司る根吉が妹のウマ(松井康子)と淫らな行為をしていることが神の怒りに触れたと考え、彼を鎖で繋ぎ、穴を掘って巨岩を始末するように命じた。そしてウマは竜の妾になり、根吉の息子亀太郎(河原崎長一郎)は村の若者たちから疎外された。
サトウキビ栽培を唯一の産業にするこの島に、東京から製糖会社の技師・刈谷(北村和夫)が工場建設のための水源調査にやって来て、亀太郎は精糖工場長でもある竜に頼んで刈谷の助手になった。二人は島内の随所で水源調査を行い適地を見つけるが、神聖な土地であることから島民の妨害を受けてしまう。
一方、慣れない島で一人暮らしをする刈谷を慰めようと、竜は妾のウマを彼の元に差し向けるが真面目な彼は乗ってこない。ところが根吉の娘で亀太郎の妹トリ子(沖山秀子)に出会った彼は、知的障害がある彼女の純粋さと魅力に惹かれ、根吉の穴掘りを手伝うようになり、島に永住しようとまで決意する。
やがて山盛が死に、東京の事業者による島の観光開発が決定して、竜は空港建設計画のため根吉の土地を含めた用地買収を始める。一方、島の生活に馴染んできた刈谷だが、会社からの帰京命令で島を去った。トリ子はすっかり元気をなくしていた。
空港建設が本決まりになった頃、巨岩がようやく穴に落ち、根吉はその作業から解放された。竜はいい機会とばかりに土地を立ち退くよう促すのだが、根吉はこれからはウマと暮らせる気になっていてそれを受け入れなかった。
豊年祭りの夜、竜はウマを抱いたまま死んだ。ところが竜の妻は嫉妬と恨みで家に火を点け、根吉が夫を殺したと村人に告げた。根吉はウマを連れて無人島で暮らそうと小舟で島を脱出しようとする。しかし根吉は亀太郎を含めた追っ手の若者たちに撲殺され、ウマも小舟の帆柱に縛り付けられて見殺しにされた。
5年後、空港が出来てクラゲ島は観光客でにぎわっていた。亀太郎は一度東京に行ったが、いつの間にか島に戻り、今は蒸気機関車の運転手をしている。東京に戻っていた刈谷は妻や義母にあたる会長夫人を連れて再びクラゲ島を訪れた。汽車に乗った彼らは、刈谷を待ち焦がれたトリ子が化身したと言われる岩・トリ子岩を眺める。運転手の亀太郎は、レールの先に亡くなったトリ子の幻影を見るのだった。
《感想》それまで庶民の生活感あふれるバイタリティをリアルに描いていた今村が、視点を神話的な世界に変え圧倒的なリアリズムで挑んだ作品。
土着信仰に支えられたムラ社会にあって、若者は古い因習の束縛から抜け出したいと願いながら、一方でその因習に守られながら生きている自分をも感じている。神事、夜這い、村八分、私刑‥‥野蛮さと性の奔放さに満ちた古い因習。それは村落共同体に生きる宿命として受け入れざるを得ない、古来日本人が選択した一つの生き方であり、共同体の在りようだったのだろう。
そんな社会に、金欲にまみれた近代化の波が押し寄せて変質を迫り、それによって古い因習が呑み込まれ葬られていく。描かれるのは神話の時代の終焉。
どこか近代化を否定するような視線も感じるが、それよりも今は失われた日本人の生き方を描いて、近代化で喪ったもの、日本人とは、と問いたかったものと思う。シンボリックに描かれる巨岩や赤い帆が何を意味するのか、モヤモヤが残った。
そして、後年の『楢山節考(83年)』を想起した。共に人間の性と生と死を描いているのだが、その違いは生と死に対する視点。『楢山節考』が口減らしという形の死や断念を描いているのに対し、本作は誰もが生き残ろうとする、その生と欲への執着がすさまじい。
今村らしい原色のコントラスト、南国のむせ返るような湿度感、鬼気迫る熱量の演出、どの役者も必死だ。多くのエピソードを残した、困難を極める撮影だったことが偲ばれる。嫌悪感を抱く人もいそうだが、そのパワーと衝撃に圧倒される。