夢と挫折、自立と転落をたどる女の人生
《公開年》1962《制作国》フランス
《あらすじ》1960年代初頭のパリのカフェ。ナナ(アンナ・カリーナ)は夫のポールと言い争いをしている。彼女は舞台女優になる夢を叶えるため、彼との間にできた子どもまでも置き去りにして家を出たのだった。話は平行線のまま終わるが、女優になる足掛かりも掴めずレコード店員をしている彼女の生活は厳しい。その夜、ナナは映画館で『裁かるるジャンヌ』を観て、処刑が言い渡されジャンヌが涙を流すシーンで、我が身を重ねて涙した。
金も住まいも失ったナナは、娼婦が立つ舗道を歩き、そこで声を掛けられた男に初めて体を売った。そして、ナナはイヴェットという女友達に再会する。彼女は夫と別れて生活のために娼婦をしているという。ナナは思う「自由だから、何をするのも私の責任。自分の生きる道は自分で決めるもの。自分だけは自分を愛そう」と。
イヴェットからラウール(サディ・レボ)という男を紹介されるが、彼は売春組織のポン引きだった。そしてナナはラウールの斡旋で本格的に娼婦となり、ラウールはナナのヒモになった。
たくさんの男たちと寝る暮らしをするナナだったが、カフェの2階でビリヤードをする若い男に惹かれ、ジュークボックスの音楽に合わせて踊り気を引こうとするが、男は関心を示さなかった。
またあるカフェに立ち寄った時、隣の席で読書する初老の男が気になって声をかける。本を読むことが仕事なのだというその男は哲学者だった。ナナは「なぜ人は話をするのか」と問い、「言葉は愛と同じだから、それ無しでは生きられない」と返される。さらに「愛は常に真実であるべきだが、あいまいで雑多な概念だ。純粋な愛を理解するには成熟が必要」と諭された。
ナナの部屋には、いつかのビリヤードに夢中だった若い男がいる。二人は愛を確認し合い、一緒に暮らそうと約束した。ところが、ナナはラウールによって他の組織に売り渡されることになる。客を選り好みするナナは見放されたのだった。
嫌がるナナを無理やり車に乗せて取引場所に来たラウールは、受け渡しの際、金が足りないと再びナナを引き寄せた。相手は銃を構えて脅し、ラウールはナナを盾にして応戦する。相手はラウールに向けて容赦なく発砲してナナが銃弾を受けてしまう。ラウールも相手もその場を去り、銃弾に倒れたナナは一人、路上に置き去りにされてしまった。
《感想》ゴダール作品としては、哲学問答は含まれるものの難解さはなく、分かりやすいスートーリーで淡々と展開していく。そんな中に、表情でなく背中からのロングショット、鏡への映り込みなど、構図とカメラワークにこだわった斬新な映像がいかにもゴダールらしい。
多くの娼婦ものを手掛けた溝口健二の影響が指摘されるが、本作では娼婦として生きることを決意したときのモノローグがその最たるものか。転落しても気高くあろうとする、肉体では交わっても心を通わすことのない女性像。自分らしくどう生きるか、ナナは娼婦に身を落としてもなお確固とした自分を貫きたかったのだろうが、そのプライドが不幸な結果を招いてしまう。
原題は「自分の人生を生きる」の意味。「自由だから、何をするのも私の責任」と語るナナは、夢と挫折、自立、転落へと流転の人生をたどる。挿入される映画『裁かるるジャンヌ』を観ながら、我が身を重ねて涙するナナ。アンナ・カリーナという女優は決して演技派とは思えないが、このシーンの涙は実にピュアな美しさを湛えていた。
これ以外にもアンナの魅力が溢れている。身長を測るときのあどけない仕草、大音量のジュークボックスに合わせて踊るダンス。コケティッシュではあるが、どこか切なさ含みの痛々しさが感じられる。この当時、ゴダールとは結婚したばかりで、ゴダールのアンナ愛は感じられるのだが、アンナには「美しくない」とお気に召さなかったようで、65年に破局を迎えている。ままならないものだ。