『林檎とポラロイド』クリストス・ニク

喪失から立ち直る男の不思議な寓話

林檎とポラロイド

《公開年》2020《制作国》ギリシャ他
《あらすじ》部屋の中で一人の男(アリス・セルヴェタリス)が壁に頭突きをしている。そしてアパートを出て花を持ってバスに乗るが、終点に着いても眠ったままで運転手に起こされる。しかし、何を聞かれても答えられず、何も覚えていなかった。不意に記憶を喪失する奇病が蔓延しているらしく、彼は即入院になった。
身元不明者として入院した男は、唯一記憶にある好物のリンゴを毎日食べ、記憶障害の検査を受け、鎮静剤を飲んで暮らしていた。彼を捜しに来る人もいないので、自立のために「新しい自分」プログラムを受けるよう医師から勧められる。それは、過去を捨てて新しい人生を作り直すというものだった。
アパートの一室を与えられ、送られてくるカセットテープに吹き込まれた様々なミッションをこなしていく。自転車に乗る、仮装パーティに行く、ホラー映画を観る、バーで女を誘うなど。そしてその体験をポラロイドで撮りアルバムに残していくのである。
そして、男は映画館で同じプログラムを実行している女性(ソフィア・ゲオルゴヴァシリ)に出会う。言葉を交わし、デートを重ね、親しくなっていくが、男は時折、過去の記憶の断片を思い出すようになる。新しい思い出を作るためのミッションが男の過去を徐々にひも解いていった。
ある日、その女性に誘われて踊りに行き、酔った彼女にトイレに誘われセックスをする。ところが、少し遅れて男の元に同様のミッションが届き、それもプログラムの一環だったと知った。
次に男に届いたのは、余命僅かな患者に寄り添い、葬儀に立ち会うこと。あと数日の命という入院中の老人の世話をして、老人の問いに「結婚していたが妻は死んだ」と男はもらす。老人の願いで焼き菓子を作ろうとしているところへあの女性が訪ねてきて、これから葬儀に出るので付き合って欲しいと言う。彼女も男と同じプログラムを実行しているのだと気づく。男は断り、焼き菓子を作って病院に届けるが老人は既に亡くなっていた。
墓地で、老人の葬儀を遠くから見守った男は、次のミッションを聞かなかった。記憶を失う前、自分が花を持ってどこに行くところだったかを思い出す。出向いた先は「アンナ」と記された妻の墓だった。そして、以前住んでいた住所を思い出した男は、かつての家に行き部屋に入った。テーブルにはひと盛りのリンゴがあって、男はそのリンゴを剥いて食べ始めた。

《感想》突然記憶を喪失する奇病が蔓延する世界で、記憶を失った男が「過去を捨て、新しい自分を作り直す」ために様々なミッションに挑戦するのだが、男がそれに取り組むうち過去の記憶の断片を思い出すようになり、徐々に過去が明かされていく。冒頭、記憶を失う前の男は花を持ってどこに出かけようとしたのか、ラストでやっと理解できて合点がいく。それは妻の墓だった。
そして思い返すと、「新しい自分」プログラムの途中で記憶を回復したのではなく、最初から記憶喪失者を演じていたことが、多くの些細なエピソードから推測できるように仕組まれている。「新しい自分」として生き直せる記憶喪失の世界という発想がとてもユニークだし、実に緻密に巧みに組み立てられた脚本だと思う。
物語は妻を亡くした男が、失った悲しみ、苦しみから逃れるために記憶喪失の世界に飛び込むが、老人の死を看取るというミッションで死を客観的に理解する体験をして、妻の死を受け入れ再生していくという展開(と、私は解釈した)。それにしても、記憶喪失のフリまでして忘れたい過去とは、と考えさせられる。それほどまでに妻を深く愛し、彼の生きる支えだったかと思うと切なく迫るものがある。
加えて、シリアスな展開なのだが、かなりいい加減で怪しげなミッションは滑稽でもあるし、ミッションの指示がカセットテープ、記録がポラロイドというのが超アナログで笑える。どこか人肌のような温もりを感じさせる。そして、ファンタジーでありながら大人の哀愁とユーモアがあって、観終えてからジンワリと静かな感動に包まれる、そんな映画かと思う。

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投稿者: むさじー

映画レビューのモットーは温故知新、共感第一、良品発掘。映画は広くて深い世界、未だに出会いがあり発見があり、そこに喜びがあります。鑑賞はWOWOWとU-NEXTが中心です。高齢者よ来たれ、映画の世界へ!