『アフター・ヤン』コゴナダ

深淵だが退屈な生活密着型SF

アフター・ヤン

《公開年》2021《制作国》アメリカ
《あらすじ》人型ロボットが一般家庭にまで普及した近未来。小さな茶葉専門店を営むジェイク(コリン・ファレル)は、妻のカイラ(ジョディ・ターナー=スミス)と中国系の幼女ミカと共に暮らし、傍にはいつも家庭用ロボットのヤン(ジャスティン・H・ミン)がいて、ミカとは本当の兄妹のような存在だった。
しかし突然、ヤンが故障で動かなくなってしまい、心配し寂しがるミカのためにジェイクは修理しようとするが、中古で買ったため製造元には持ち込めず、購入先も無くなっていた。やっとヤンを修理してもらえそうな店を見つけ持ち込むと、そこでヤンの体内には1日数秒間の動画を撮影・記録できるメモリが内蔵されていることを教えられ、ジェイクは動画を家に持ち帰り見ることにする。
そこには、ヤンの目から見たミカの成長ぶりと共に、見知らぬ若い女性の姿が幾度も登場するが、彼女がどんな存在かは分からない。間もなく修理屋から、ヤンを修理再生させるのは不可能との連絡が入った。一方、博物館の研究者からは、ヤンのメモリが貴重な研究材料なので展示させてほしいと依頼がきた。
動画に映っていた女性のことが気になったジェイクは、隣人宅を訪ねて聞くと、彼女はクローンだったと知らされ、働いていたというカフェに行ってみるが、もう働いておらず行方も知れなかった。
ところがある日、この女性がジェイクの前に現れた。彼女はエイダ(ヘイリー・ルー・リチャードソン)と名乗り、ヤンとは話をするだけの関係で、彼はアジア人とは何かを考えていて、それは自分自身への疑問でなく、アジア人であるミカにそのことを教えたかったから、と伝えた。
ヤンがいなくなってからミカに異変が起こり、学校で問題を起こすようになる。まだ幼いミカには、兄のような存在のヤンを失うことは受け入れ難いことだった。
ある日、ヤンの前の持ち主が分かり訪ねると、持ち主はヤンがあまりに静かで退屈だったので返品したと言い、中古で手に入れていた。そしてヤンの記憶は二代前の所有者に関わるものだと分かる。ヤンはかつて若い母親とその息子と暮らしていて、母親が老いてその介護をするためにエイダが現れ二人は親しくなるが、ある日エイダが交通事故で亡くなって、そのクローンとして生まれたのが現在のエイダだったと分かる(この辺の経緯は少しあいまいです)。
以前ジェイクに連絡をしてきた研究者から展示したい旨の正式依頼が来て、ジェイクは手放したくない気持ちと、研究に貢献したい気持ちの狭間で悩む。そんな思いを胸にヤンの動画を見るジェイクの横にミカがやってきて、ヤンと別れたくないと話し、ヤンの記憶の中にあった歌を歌い始めた。

《感想》人間と瓜二つのロボットが家庭に普及している近未来。そのロボットが故障して記憶メモリを取り出したら、人間と同じような感情を持っていた。人間は自分たちに似たロボットやクローンを作り、それを差別化することで快適な生活を享受してきたのだが、「両者の違いはどこにあるのか」という疑問に突き当たる。更に、テクノロジーが意識を生み出す可能性のある世界で、意識を持つ存在である「人間であることの意味とは」と問う。
だがそうした人間の身勝手さを批判することなく、また人間とロボットの差異を論じることもなく、人生を共に生きた優しい人型ロボットの喪失、その“喪の作業”という感傷でお茶を濁してしまった感がある。ストーリー、映像、音楽すべてがアートに走りすぎて、深淵だが抽象的で退屈な世界に陥ってしまった気がする。
前作『コロンバス』では、こだわり抜いた構図と映像美に目を奪われ、ドラマは今一つという印象だったが、本作は映像が何とも暗く、ストーリーはボンヤリしていてテンポが遅すぎる。
それでもなお、日頃SFに馴染みの薄い私にとっては面白い問題提起のように思えた。プログラミング次第でAIが人間より感情豊かになったら、意思を持つようになったらどうなるのだろう。人間とロボットやクローンの混血が登場したら、今の人種差別は解消するのだろうか、それとも新たな対立が生まれるのだろうか。宙ぶらりんに終わった哲学的命題を含めて興味は尽きない。そして次作にまた期待してしまう。

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投稿者: むさじー

映画レビューのモットーは温故知新、共感第一、良品発掘。映画は広くて深い世界、未だに出会いがあり発見があり、そこに喜びがあります。鑑賞はWOWOWとU-NEXTが中心です。高齢者よ来たれ、映画の世界へ!