「金継ぎ」で壊れた過去を修復する
《公開年》2019《制作国》ジョージア、フランス
《あらすじ》ジョージアの首都トビリシの旧市街にある古い木造の集合住宅に作家のエレネ(ナナ・ジョルジャゼ)は娘夫婦と暮らしている。79歳の誕生日を迎えるが家族の誰もが忘れていた。娘は、夫の母であるミランダ(グランダ・ガブニア)にアルツハイマーの症状が出始めたので、この家に住まわせたいと言ってきた。
そこへ、かつての恋人アルチル(ズラ・キプシゼ)から数十年ぶりに電話がかかってくる。彼は車椅子の生活をしているというが、二人は近況を話し合いながら、かつてのグルジア時代の話で盛り上がった。
やがてミランダが越してくる。彼女はグルジア時代の政府高官で、ソ連への編入自体を正当化する思想を持っていて、当時の自慢話をする老女だった。エレネは新作の執筆に行き詰っていて、そこにミランダが人を見下すような高慢な態度で接してくるので、ミランダのイライラは募ってくる。
アルチルとは度々電話で話すようになる。「過去から解放されないと重荷だが、重くても過去は私たちの財産。過去が重荷であり財産ならば、日本の伝統技法“金継ぎ”のように、過去の傷を隠すより傷を認めたうえで丁寧に修復する方がいい。未来に進むためには」。二人の会話は尽きない。
ある日、アルチルから「テレビに出る」ことが伝えられ、そのテレビを観ていたエレネにミランダが話しかける。ソ連時代にしきりに私に近づいてきた美青年だと、エレネの気持ちを逆なでするように言う。更に、かつてエレネの作品が政府非難に当たるとして発禁処分になったことがあるが、その処分を下したのは私よ、とぬけぬけと言い放つ。エレネは、自分の運命を変えたのがミランダだったと知る。
そんなミランダだったが、アルツハイマーの症状は日々悪化し、道行く人に意味不明な語りかけをするボケの行動が出始めた。だが、同じ集合住宅に住む親切な老人の話によると、ミランダは何かを売って基金に金を送っているらしい。そしてミランダが行方不明になる。彼女は過去の自分自身を追いかけて街をさまよい政府施設の廃墟にたどり着いて、過去を語り始めた。
エレネは「ミランダに出て行って欲しいと願ったが、今は孤独を感じる。彼女も孤独を感じたから出て行った。生きたいなら過去に囚われても破壊してもいけない。継ぎ合わせるもの」と過去と和解する大切さを思うのだった。エレナは一人でタンゴを踊った、幻のアルチルと共に。
《感想》監督自身の体験が背景になっているとのこと。調べると、監督はグルジアがソ連に編入した1922年から6年後の1928年生まれ。政治家であった父は1930年代に行われたスターリンの大粛清で処刑され、母は10年間流刑されている。本人はソ連体制下の「女性映画」監督になるが、1991年にソ連が崩壊しジョージアが独立すると、国会議員になり政治の世界に入って長く映画製作から離れた。2019年公開の本作は27年ぶり、監督91歳の作となる。
そんな激動の人生を背景にしながら映画は静かに展開する。芸術家と政治家、個人主義者と全体主義者。その両方を体験した監督が、過去とどう向き合い、今をどう生きればいいかを語る。劇中で権力者だったミランダがいかに高慢に振舞っても、エレネは怒りや憎しみの感情を露わにすることがなかった。
それは「失われた時」を求めても戻ることはない。ならば、過去には囚われず壊しもせず、過去の傷跡を修復するのがいい。そうすれば壊れた過去だって美しくよみがえる。これが、傷跡を隠さず輝ける個性や価値に変えた「金継ぎ」の意図するところなのだろう。
ジョージアという馴染みの薄い国の歴史や政治事情が絡んでいるので、理解が及ばないところが多々ある。また、27年間ため込んできた思いの深さと共に、文学的・哲学的思索に傾き過ぎた嫌いもある。だから映画作品としての評価はしにくいが、監督の“遺言”のような重みを感じる。
深く沈潜した私的世界からグローバルな世界へと目を移し、圧政に苦しんだ過去を赦して未来への祈りに変える。91歳の年輪が持つ深さと、未だ衰えない創作意欲に驚かされる。
エンタメ性ゼロ、R60指定のような映画だが、こんな映画に出会うのは久しぶりだ。
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