『鉄道運転士の花束』ミロシュ・ラドヴィッチ

ブラックな笑いを温かく包んで

鉄道運転士の花束

《公開年》2016《制作国》セルビア・クロアチア合作
《あらすじ》イリヤ(ラザル・リストフスキー)は60歳になる鉄道運転士。これまで事故で28人を死なせてしまった経験を持つが、今回もロマの楽団を乗せた車が線路上に立ち往生し、衝突した結果6名が亡くなった。イリヤは花束を抱えて墓参りに行く。こんな心の痛みを感じた時イリヤは、愛情に近い信頼で結ばれている心理療法士のヤゴダ(ミリャナ・カラノビッチ)の所を訪れ癒されるのだった。
9年前、児童養護施設にいた10歳のシーマは、それまで両親は飛行機事故で亡くなったと聞いていたが、実は段ボールに入れられ捨てられていたという事実を知ってショックを受け、施設を抜け出した。失意の中、線路上を歩いていてイリヤが運転する列車に遭遇する。自殺志願のシーマをイリヤは家に連れ帰り、隣に住むドラガンとシーダ夫婦に助けられながら育てることにする。イリヤは車庫のような場所の古い列車を改造した家に住み、運転士仲間と暮らしていた。
時は過ぎて、シーマ(ペータル・コラッチ)は19歳になり鉄道学校卒業の日を迎えた。シーマは運転士志望だが、イリヤが反対して、整備士になるべく別の町に住む知り合いに預けられた。イリヤがシーマを運転士にしたくないのは自身の辛い経験からだった。
列車の整備と清掃の日々を過ごすシーマだったが、ある日、運転士のリューバに誘われて列車の運転席に試乗させてもらう。ところが、喜んで試し運転をするシーマに運転を任せてリューバが運転席を離れる間に、スピードが加速し、ブレーキは効かずシーマはパニックに陥る。イリヤに電話を掛けるが間に合わず、シーマは運転席から外に飛び出した。幸い軽いケガだけで済んだが、これを機にイリヤはシーマを立派な運転士に育てようと決意した。
やがて運転士になったシーマだが、最初の壁にぶち当たる。いつ人が飛び出してくるか不安で、減速してばかり。時間通りに荷物を運べない状態だった。誰かを轢かなければこの不安を解消できず、苦しみ続けると思ったイリヤは自殺志願者を探すことにする。すると橋の上に川を見下ろす男を発見し「どうせ死ぬなら協力してくれ」と交渉するが決裂した。
イリヤは最後の手段で、トンネルを抜けた先の線路に自ら横たわることにした。そこにシーマが運転する列車がやってくる。ところがトンネルの手前の踏切にトラックが立ち往生していて、シーマはブレーキをかけるが時すでに遅し。列車は車を轢いてトンネルを抜け、横たわるイリヤの手前で止まった。車の運転者はリューバだった。
しばらくして、シーマが運転する列車の客席には、一緒に旅行するイリヤとヤゴダの姿があった。そして事故という避けられない宿命を背負った運転士の二人は、その度に花束を持って墓参りをするのだった。



《感想》今まで数多くの人を轢き殺してきた鉄道運転士のイリヤは、運転士になったばかりの養子シーラが、いつ人が飛び出してくるかと不安で苦しむ様子を見て、誰かを轢かなければこの不安を解消できないと考えた。そして自殺志願者を探し、あげく自分の命を投げ出してまで立派な運転士に育て上げようとする。
何ともシュールな発想で、強烈なブラックユーモアに満ちているが、含みを持たせて様々な解釈ができるその分、不思議な味わいを宿している。
背景に、激しい内戦を経験した国ならではの特殊な死生観があることは想像できる。絶えず人命を犠牲にして成り立ってきた社会にあって、死が身近すぎる不感症気味の人生を思うと、この鉄道運転士は「兵士」のメタファーではないかと。最初の一人を殺すまでは恐怖に怯えるが、そこから先は肝が据わるというか、「私は悪くない、やっと一人前」と自己肯定できるようになる。若者の通過儀礼とも、死を軽視する社会への警鐘とも解釈できそうだ。
その一方、イリヤにはかつて愛した人を轢死で亡くしたトラウマがあり幻覚に悩まされていて、愛する人の死だけは容易に乗り越えられない。しかし、自らが轢死を疑似体験することでその呪縛と幻覚から解放され、平穏な実人生を取り戻す。ラストは人生の再出発にふさわしい温かな空気に包まれていた。
本作のブラックユーモアには、カラッと乾いた感触と愛情のこもったホノボノ感があって、心地よさを覚える。この新鮮な笑いは、不謹慎だが面白い。

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投稿者: むさじー

映画レビューのモットーは温故知新、共感第一、良品発掘。そして、世間の評価に関係なく私が心動かされた映画だけ、それがこだわりです。やや深読みや謎解きに傾いている点はご容赦ください。 映画は広くて深い世界、未だに出会いがあり発見があります。「いやぁ~映画って本当にいいものだ」としみじみ思います。