『河』ツァイ・ミンリャン

現代家族の孤独と彷徨

河

《公開年》1997《制作国》台湾
《あらすじ》台北の百貨店前。シャオカン(リー・カンション)は旧知の女友達と2年ぶりに再会し、映画スタッフの彼女に誘われて撮影現場に出向く。撮影は河に水死体が流れるシーンなのだが人形ではうまくいかず、女性監督に目をつけられたシャオカンは死体役を押し付けられる。無事に死体役の撮影を終えた彼は用意されたホテルに入り、くつろいでいるところへ女友達が訪れて二人は愛し合った。
ところが帰宅したシャオカンは首が曲がったままになる奇病に冒されてしまう。その治療のため、整形外科、整体、マッサージ、鍼(ハリ)と両親は次々に試みるが、どんな治療も成果は上がらなかった。しかし皮肉にも崩壊しかかっていた家族の交流をわずかながら復活させた。
そもそも両親は不仲で、母親(ルー・シアリオン)はフードコートで働いているが、父親(ミャオ・ティエン)と息子のシャオカンは定職に就かずブラブラしている。父親は炊事、洗濯と自分のことは何でもこなす自立した生活をしているが、母親との会話はなく、家庭内別居の状態だった。
そして、それぞれに秘密を抱えていた。父親は一人でよく街に出かけるが、行く先はゲイが集まるサウナだった。一方の母親は、AVビデオの違法販売をする男と不倫をしていた。それぞれが孤独を癒す、現実から逃れることばかりを考えていた。
家では、この地特有のスコールによって父親の部屋はひどい雨漏りに見舞われるが、父親は取り乱さず冷静にバケツを使って対処している。水源を突き止めようと上の階に行くがいつも留守だった。後に母親が雨漏りに気づいた時、母親がベランダ伝いに上階の部屋に侵入すると、水道が出しっ放しになっていた。
父親はシャオカンを連れて列車で別の町に向かった。祈祷師による霊感療法に望みを託してのことだが、施療の結果は翌日にとのことで二人はホテルに泊まった。
その夜、シャオカンは不自由な身体を押してハッテン場と称されるゲイ・サウナに出向いた。シャオカンは個室で横たわり相手を待つが相手にされず、やがてある男の部屋に入り添い寝して、男の手によって果たされてしまう。行為の後に明かりを点けると、相手の男は父親だった。愕然とした父親はシャオカンを殴りつけ、シャオカンは部屋を飛び出した。ホテルに戻った二人はベッドで背中を向け合ったまま涙を流した。
翌朝、祈祷師から「霊視したが寺では無理なので台北で名医を探せ」という返事が来て希望は絶たれた。シャオカンは首を押さえたまま一人空を見上げた。



《感想》勢いよく流れる川ではなく暗くよどんだ河、その異臭が漂ってくるような映画である。家族とは名ばかりで、両親は互いに会話するでもなく、父と息子は働く意欲もなくブラブラしていて、雨漏りのする家で三人がそれぞれの暮らしを営んでいる。そこに汚染水にまみれた災いか、息子の奇病が表れるのだが、皮肉にもバラバラになった家族をつなぎとめることになる。雨漏れのエピソードが家族関係の亀裂を象徴するかのように描かれるが、その対策にも右往左往する。
ゲイ・サウナのシーンが最も強烈だ。薄暗いサウナの廊下に腰にタオルを巻いた男たちが回遊し、個室で待つ男との出会いを探す欲望が充満した世界で、その生々しさに息苦しさを覚えた。
そこで父と息子が邂逅するのだが、息子の心象世界が最も色濃く表れたシーンである。息子が父の部屋を訪れたのは果たして偶然なのか、意図的なのか。判然としないが後者である気がした。
息子は両親のように自分を解放できる癒しの場が欲しかった。心の飢えが親に抱かれたい子の思いになり、そのためには父の世界に飛び込むしかない、そんな覚悟のようなものが見えた。だからその後の二人の涙は、こんな形でしか思いを伝えられなかった子の無念、心中を推し量れなかった親の不甲斐なさから流した切ない涙と解した。
何も解決していないエンディングなのだが、不思議と吹っ切れたような余韻を残している。また、人はみな孤独という基盤に立ちながら、それでもなお出会いとか支え合いとかに期待する温かな視線を感じた。
全体的には三人それぞれの動きを俯瞰するように、その心象に深入りせずに淡々と描いている。会話は少なめなのだが、解釈は多様だし映像に言外の意味を込めていて、どことなく文学的な雰囲気を宿している映画という気がした。

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投稿者: むさじー

映画レビューのモットーは温故知新、共感第一、良品発掘。そして、世間の評価に関係なく私が心動かされた映画だけ、それがこだわりです。やや深読みや謎解きに傾いている点はご容赦ください。 映画は広くて深い世界、未だに出会いがあり発見があります。「いやぁ~映画って本当にいいものだ」としみじみ思います。