社会の変化に翻弄される人間の業
《あらすじ》時代は1980年代初頭の高度経済成長末期で、舞台は茨城県の鹿島臨海工業地帯に隣接する小さな町。農家である山沢家は長男の幸雄(根津甚八)がダンプの運転手として外で働き、両親と妻の文江(山口美也子)が農業に従事している。次男・明彦(矢吹二朗)は東京に出ていて、そのことを恨みに思う幸雄は時折些細なことで暴れだし、この日も暴れた幸雄は近所の手を借りて柱に縛り付けられた。
そんな彼の生きがいは幼い二人の息子たちなのだが、ある日、二人きりで沼に遊びに出かけ、ボートから転落して命を落としてしまう。身重の文江は嘆き悲しみ、幸雄は怒りを文江にぶつけ、背中に観音像と子どもの戒名を刺青して供養した。
そんな折、幸雄は順子(秋吉久美子)という、かつて明彦の恋人だった女をダンプに乗せてやる。順子は、昼間は工場で働き、夜は母の飲み屋を手伝っていた。彼女は母親が若い男と出て行ったと打ち明け、寂しさを抱えた者同士で男女の関係が生まれ二人は同棲を始めた。妻文江は黙認した。
4年後、順子との間には娘まり子が生まれ、実家の文江は第三子トシヤを出産していたが、依然として幸雄の二重生活は続いていた。だが絶頂期に比べると仕事は減り、その不安と孤独を紛らわすために覚醒剤を常用するようになっていた。
一方、母や兄夫婦を心配して東京から実家に戻った明彦は幸雄が設立した山沢建材の現場を手伝うようになり、兄の借金返済のために懸命に働いた。しかし、ヤクザから覚醒剤を買い荒んでいく幸雄と、それを説教する堅実な明彦の間には溝が広がり、幸雄は会社も仕事も捨てて逃げ出してしまう。
家計が苦しくなって順子はスナックで働き始め、順子のヒモに成り下がった幸雄はますます覚醒剤に溺れていって、幻聴と幻覚に襲われるようになる。順子は仕方なく、結婚を控えた昔の恋人・明彦に金の工面を頼んだ。順子と明彦が会っていると知った幸雄は、それまで鬱積していた弟に対する嫉妬とコンプレックスが一気に噴き出した。
明彦の結婚式の日、幻聴や幻覚を抱えた姿で式場に向かった幸雄は、明彦に包丁を突きつけ「順子に会うな。謝れ」と威嚇した。あまりの情けなさに明彦は幸雄を殴り倒し、幸雄を見放して式場に戻った。
結婚式に行ったはずの幸雄が自宅の窓辺で呆けているのを、帰宅した順子が見つけた。「もうクスリはやめて。昔のあんたに戻って」と哀願する順子だったが、その声に幸雄は耳を傾けなかった。やがて台所に立ち黙って野菜を切り始める順子。すると幸雄の耳には順子の心の声が幻聴として聞こえてくる。自分に対する恨みつらみ、情けない自分を責め立てる声を聞いた幸雄は、突然、順子の背中に包丁を突き刺し、息絶える姿を呆然と眺めた。
《感想》暗く、重く、切なくと三拍子揃っていてユーウツになるのだが、過剰な程のリアリティが胸に迫って、その息苦しさが心に残る昭和の名作。
まず役者ありき。主人公・幸雄は、我が子や家庭という拠り所を失い、救いを求めてクスリへと走るのだが、その怖さを知りながら誘惑を絶てずに堕ちていく生き様が鮮烈で、それを演じる根津甚八が凄い。
そして、デビュー以来いわゆる「女優らしくない」素の魅力を放っていた秋吉久美子が、見事な存在感で薄幸のカワイイ女を演じている。彼女が歌う少し調子のはずれた中島みゆき『ひとり上手』は、やり切れない孤独感を湛えていて、それを聴いた幸雄は深くうなだれて涙ぐみ、いたたまれずに店から飛び出した。二人のやり場のない悲しみが伝わってくる。
時代は高度成長期末期で、それまで勢いよく進めてきた工業化と、疲弊していく農村が共存していて、若者は地道な農業を継がずに容易な仕事を求めて村を捨て、残された者はムラ社会の閉塞感と、そこから抜け出せない呪縛感にさいなまれる。本作の幸雄は、農家の長男である重荷と自由な弟への嫉妬から屈折した心情が芽生え、やがてクスリに溺れて廃人になっていくが、その姿は工業化によって破壊された田園風景に重なって見える。
イタコの口寄せが残る古い因習、鶏を絞めた後の宙に舞う羽毛、棄てられた嫁の豚小屋でのセックス‥‥印象的に描かれるこんな土着の暮らしは工業化で大きく揺れる。社会の変化に翻弄され疎外されていく人間の孤独が、この時代のよどんだ空気と徹底したリアリズムで描かれる様はやはり圧巻である。
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