人生をリセットした女の“家族、老い、孤独”
《公開年》1977《制作国》西ドイツ
《あらすじ》3月。マリアンヌ(エディット・クレヴァー)は北欧への長期出張から帰国した夫のブルーノ(ブルーノ・ガンツ)を駅に出迎えた。久しぶりに会った妻にブルーノは、「離れていても家族は一つだ」と家族の絆を語るが、マリアンヌは何も答えない。その夜は一人息子のステファンを家に置いて、夫婦だけの食事をしてホテルで一夜を過ごした。
ところが翌朝、それまで黙っていたマリアンヌが「啓示を受けた」と言い、続けて何の理由も語らず一方的にブルーノに別れを切り出した。そして夫に追求する間を与えず口論を避けるように、息子を学校に送ることを口実にして一人で家に帰った。後から帰宅したブルーノは、事務所に泊まると言って荷物を持って出て行った。夫は妻の身勝手をなじった。
ある夜、出版社時代の元上司らしき男が10年ぶりにマリアンヌ宅を訪れる。彼は年若い恋人と別れたばかりだと言う。少女のような恋人と一緒にいると、彼女の視線の先にあるのは若い男ばかり、そんな想像が頭を離れず、若さへの羨望、嫉妬、自らの老いを自覚してのことだと語った。
マリアンヌは、自身の出版社経験を生かせるような就職活動をしながら、フランス語翻訳の仕事を始める。今まで通り、8歳になるステファンとの二人暮らしだが、息子の友達が来て騒ぐ声に仕事がはかどらず苛立ってしまう。また、仲睦まじい老夫婦の姿に涙ぐむこともあった。彼女は深い孤独の中にいた。
ある日、突然ブルーノが訪れ、再び“女の浅知恵”だとなじったが、マリアンヌは彼との間に距離だけを感じていた。一方、息子ステファンとは一緒に映画を観に行くような日常が戻っていた。
マリアンヌのことを心配した父親が娘の元にやってきた。老いて一人暮らしの父は、娘の服の破れを繕うなど気遣うが、なかなか話を切り出そうとしない。やがて不幸だったという自分の人生を語り、「私のようになるぞ」と娘に忠告した。二人は一緒に写真を撮り、父の温かさに触れ穏やかさ取り戻した娘は、父を駅に見送った。
4月。一緒に買い物をした後にブルーノがマリアンヌに「君と暮らしたい」と言うが、マリアンヌは「また寄って」と答えた。また、近しい女友達から近況を聞かれたマリアンヌは「独りで生きたい」と語った。
そして5月。暖かく穏やかな季節を迎え「今ここにいるのに、ふさわしい場所がないなどと嘆くべきではない」とスーパーが流れてエンド。
《感想》これからの人生に懐疑を抱いた中年夫婦が出した結論は、夫は家族の絆を深めたい、妻は独りで生きたいというものだった。夫と別れて生きることを決断した女が、不安と孤独を抱えて悩みながら乗り越えようとするストーリーだが、ドラマチックな展開はなく、彼女を取り巻くエピソードが綿々と綴られている印象だ。
特に小津安二郎へのオマージュが色濃く、小津のサイレント映画のワンシーンが挿入され、部屋の壁には小津の肖像写真が貼られているという入れ込みようで、彼が描いた「家族、老い、孤独」に対する深い共感が見えてくる。
映像もどこか似通っているのだが、特に列車の映像が象徴的に、頻繁に挿入されて印象に残った。走る列車、その車内、車窓の風景、この多用ぶりは何か意図があるのかと思えてくる。列車は人生のようで、毎日定刻にいつもの道を走り続ける私たちの日常と同じ。そして走り続けることが列車の宿命であるように、人も死なない限り生き続けるしかない、そんなところか。
だからラスト、「居場所がないと嘆くな」というメッセージは「今ここにいること」自体が幸せなのだとポジティブに解釈すべきだと思う。
女の心の内は、不安や孤独、焦燥や諦観とネガティブな世界観に囚われている。だが誰しも多少なりとも空虚な自分自身を抱えていて、それを何とか処して生き続けているもの。まずは生きて在ることに感謝して慎ましく生きよ、幸せは探し求めるものではなく日々の暮らしに潜んでいるもの、そんな人生訓のように思えた。
ヴィム・ヴェンダース製作で、彼の映画脚本を手掛けたノーベル賞作家ペーター・ハントケの唯一の監督作品。小津だけでなく、ヴェンダースの色合いも強く、表現はたどたどしいが内省的で、謎に満ちた人生の深淵を覗かせるような不思議な映画だった。映像で綴る詩のような、余白を味わう映画かと思う。
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