若松がいづみに捧げたレクイエム
《あらすじ》元女優で作家の鈴木いづみ(広田玲央名)が、彼女の夫で死去したフリージャズのサックス奏者、阿部薫(町田町蔵)の伝記を執筆するよう出版社から依頼を受け、回想する。
1973年、二人は新宿ゴールデン街のバーで出会い、薫がいづみに一目惚れして強引にいづみのアパートに転がり込んで来たところから始まる。共に新進の女流作家と天才的ミュージシャンとして評価されているが、酒とクスリとセックスの日々で、やがて結婚しても、その荒れた暮らしぶりは変わることがなかった。
薫は人一倍嫉妬深く感情に走りがちで、いづみの昔の男関係に言いがかりをつけたり、彼女の作家としての才能に嫉妬して暴言を吐いたり、自らの音楽活動の行き詰まりから癇癪を起こして暴力を振るうようになり、いづみも負けまいと応じて警察沙汰まで起こした。だが落ち着けば仲直り、その繰り返しだった。また薫には癲癇という持病があって、その発作に悩まされていた。
二人が泥酔したある夜、いづみは包丁を持ち出して自分の足の小指を切り落とし、失神して病院に運ばれた。それは狂気の沙汰だった。
やがていづみは妊娠し、それでも気遣うことのない薫との諍いは絶えず、家から叩き出すこともあったが、薫のいない生活は空虚で、戻れば受け入れてしまうのだった。女の子を出産して、子育てと執筆に追われるようになり薫との距離が生まれてしまう。
一方の薫はプロデューサーのノブ子と浮気をして家に帰らない日が続いたが、その関係も壊れていづみの元に帰る。しかし、妄想癖がひどくなって海辺の精神病院に収容された。
そんな彼を見ていづみは次第に現実に目覚めていった。回復の兆しが見え一旦は仕事への意欲を見せた薫だったが、「もう疲れた」と言ういづみに「別れようか」と応えた。
離婚した薫は地方での仕事も積極的にこなすようになったが、旅先から電話を寄越し突然舞い戻って再び一緒に暮らし始めた。しかし次第に演奏できなくなり、酒とクスリに溺れ、追い詰められていった。そしてある晩、いづみは仕事中に薫の苦しむ声を聞き隣室で倒れている姿を発見する。急いで病院に運び懸命に看病したが、薫はそのまま帰らぬ人となった。
葬儀が済むとノブ子が訪れ、かつて薫がいづみの文章を褒めていたと話し、喧嘩の際彼が持ち去ったいづみの原稿を返した。それは彼がけなした『女が娼婦になれなかったら、母親になるしかない』と題したものだった。それからのいづみは精神に異常をきたし、薫の幻を見るようになった。
薫が亡くなってから7年。出版社からの執筆の催促に「彼との関係は過去の思い出ではなくこれからも続く。だから伝記は書けない」と言い残して、7歳になる娘が眠るベッドの横で首を縊った。それから10数年が経ち、成長した娘は両親との写真を見つめ、微かな記憶に思いを馳せている。
《感想》若松監督らしからぬ抒情性を湛えた映画だった。もちろん過激な描写も、エロいシーンもあるのだが、どこか二人の気持ちに寄り添うような優しさを感じた。
二人とも表現者だった。我が強くて暴力的だが、その反面優しくてもろかった。自らを表現するために苦しみ、苦しみから逃れようと相手を傷つけてしまい、互いの才能を認めながら反発してしまう。
傷つけることでしか愛を表現できなかったのか、それとも愛したり憎んだりを繰り返すことで依存し合っていたのか。そんな不器用な生き方が切ない。
監督にとって、自作映画に出た女優の死には特別な感慨があっただろうし、7歳の娘の前での自死はあまりに異常で、気持ちを整理するのも容易ではなく、映画化に躊躇するところもあったかと思う。だから、ラストシーンは目一杯美化されているように思えるが、これは仕方がない。
私事だが、鈴木いづみの死を知った当時、死の背景は全く違うが、昔の久坂葉子の死に結びつけたことを記憶している。共に才能ある新進作家で、それ故の孤独を抱え、一途な性格の持ち主。そして賢く生きる術を知らなかったがゆえに衝動的に破滅へと向かった、そんなところが似ていた。
久坂の死を悼んで後に師の富士正晴が『贋・久坂葉子伝』を著わしているが、本作は若松孝二が鈴木いづみに捧げたレクイエムという気がする。
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