善悪を二分できない民族紛争のリアル
《公開年》2020《制作国》ボスニア・ヘルツェゴビナ他
《あらすじ》1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ。以前からボスニアは、セルビア人はキリスト教、ボシュニャク人はイスラム教という宗教対立から内戦が勃発していて、同年7月、セルビア側のムラディッチ将軍(ボリス・イサコヴィッチ)率いるスルプスカ共和国軍がボスニア・ムスリムの絶滅を目指して首都スレブレニツァに侵攻した。
国連はオランダ軍のカレマンス大佐(ヨハン・ヘルデンベルグ)率いる平和維持軍により住民の保全に努めているが、平和維持軍の通訳をする元教員のアイダ(ヤスナ・ジュリチッチ)は共和国軍の侵攻に動揺した。大佐は国連軍とNATOの力を信じていて心配不要と言うが、国連軍に侵攻を止める力がないことを共和国軍は見抜いていた。
そして共和国軍は首都の制圧を開始し、市長を見つけるや否や射殺して街中が戦場と化した。それまで守ってくれると信じていた市民たちはパニックになり、ポトチャリの国連施設に助けを求めて押し寄せた。しかし、収容には限りがあり、閉鎖された門の外に多くの市民が残され、アイダはその中に自分の夫と息子がいることを知った。
家族を施設内に入れたいと大佐に訴えるが、パニック状態で一度門を開くと収拾がつかなくなると退けられる。するとムラディッチ将軍が国連施設に逃げ込んだ民間人代表との交渉を提案してきて、アイダはその役割を元校長だった夫にさせようと大佐に頼み込み、夫と二人の息子を施設内に入れた。大佐は国連軍に空爆を要請するが動かず、オランダ政府とも連絡が取れなかった。
そして、将軍ら共和国軍と国連軍の大佐、アイダの夫たち代表者3人の会談が行われ、将軍から「武装解除してこの地から移動せよ。安全は保証する」と言われる。一方その会談の最中、部下を国連施設に送って「ムスリム軍捜索」の名目で武装したまま施設内に入れさせた。規律を無視する暴挙を許した平和維持軍は共和国軍の強引な要求を拒めず飲まざるを得なくなった。
多くのバスが国連施設に横付けされ、住民たちが男女に分けられバスに押し込まれた。アイダは夫と息子たちを国連施設内に匿い、家族分の国外脱出用の関係者IDを不正取得しようと試みるが失敗に終わる。アイダの夫と息子たちもトラックの荷台に乗せられて連れ去られた。着いた建物内に多くの人が押し込まれて、映画が始まると告げられて扉が閉められ、やがて一斉銃撃が始まった。8000名を超える住民が虐殺された「スレブレニツァの虐殺」である。
季節が変わって冬。アイダはかつて家族で暮らした家を訪れるが、見知らぬ居住者がいて、家族写真が入ったバッグを受け取ると、相手に出ていくよう告げてその場を去った。
アイダは教職に戻って、生徒たちの笑顔に接しているが、残された子どもたちに何をどう伝えればいいのか分からず、呆然とするばかりだった。
《感想》全体に喧騒と静寂が際立っている印象を受けた。喧騒は侵略の恐怖から逃げ惑う住民から巻き起こるもので、静寂は意外にも侵略者による殺戮のシーン。銃が向けられ銃声は聞こえるが、その後のシーンは描かれない。あえて描かずに、その悲惨さは観客に想像してもらおうという監督の狙いのような気がする。また、歴史に風化された出来事ならともかく、卑近な体験であれば描く辛さも理解できる。
それにしても、国家間の戦争において歴史上あるいは遠い地の出来事として知る虐殺事件が、民族や宗教上の対立でどうして起こるのか、やはり分からない。先日まで隣人だった人たちが互いに攻撃し合い、戦火が収まればまた元の隣人に戻る。アイダは敵の若いセルビア兵から「先生」と親しげに呼ばれ、教職として戻った学校の学芸会にはかつての敵の兵士が父親の顔で客席に座っていた。
国同士の争いであればその利権を巡る対立の構造が見えるのだが、本作からはこの民族紛争の内実が見えてこない。何のために争うのか、虐殺はなぜ起きたのか、紛争の根本が伝わってこないもどかしさを感じた。
それはアイダや市民の視点でのみ描いているからか。アイダも正義の人とか全くの善人としては描かれていない。時に家族を思うあまりエゴ丸出しになり、他人を思いやる余裕などない。これも紛争のリアルという気はするが、争いの源を追求する視点が欲しかった気はする。
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