信仰を疑い、享楽を憂える
《公開年》1959《制作国》イタリア
《あらすじ》ローマ市街の上空を、ヘリコプターによって巨大なキリスト像が寺院まで運ばれていく。社交界ゴシップを専門にする記者のマルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ)はその取材後ナイトクラブに行き、大富豪の娘マッダレーナ(アヌーク・エーメ)と再会する。彼女は遊び好きで絶えず刺激を求めていた。
外に出て車を走らせた二人は、途中で街娼を乗せ、彼女の粗末な部屋で愛を交わし一夜を共にした。朝、マルチェロが帰宅すると、婚約者のエンマが薬を飲んでもがき苦しんでいて、すぐ病院に運んで一命は取り留める。彼は愛と後悔を口にするが、その気持ちは永く続かなかった。
翌日、マルチェロはローマを訪れたハリウッド女優・シルヴィア(アニタ・エクバーグ)の取材に行き、親しくなった二人は夜通しローマの街を遊び回った。しかし彼女の恋人ロビーの妬みを買ってしまう。
その翌日、ローマ郊外の村で幼い子どもたちが「聖母マリアを見た」という情報が入り取材に向かう。報道陣が溢れる中、子どもたちはマリアが見えると言い、奇跡にあやかろうと騒ぐ群衆の上に豪雨が降り注いだ。
さらにマルチェロは友人であるスタイナー(アラン・キュニー)の文化サロン的パーティーに行く。知性に溢れ家庭も円満な彼の姿と、調和と安らぎに満ちた暮らしを羨んだ。
しかしマルチェロの自堕落な生活は変わらず、知り合いの女性ニコに誘われるまま、貴族の館の乱痴気パーティーに参加し、虚脱したように歓楽をむさぼる貴族たちの仲間入りをした。ここで再度マッダレーナに会い、プロポーズの言葉を口にする彼女と関係を持とうとするが、彼女はやはり気まぐれで、別の男が言い寄ってきて横取りされてしまう。
そして夜が明け、エンマに暮らしぶりを責められて喧嘩別れしたマルチェロは、マッダレーナを家に連れて行き、共に過ごしている夜中に電話が入る。スタイナーが妻を外出させた留守中に、子ども二人を道連れに拳銃自殺したという。平和に見えた一家のこの悲劇は、真面目になろうというマルチェロの夢や希望を打ち砕いた。もはや彼の望むものはその場限りの快楽、それしかなかった。
海辺にある資産家の別荘で、さらに大掛かりなパーティーが催され、マルチェロはそれに参加する。一晩中乱痴気騒ぎをして、マルチェロも自ら狂乱の中に没入した。明け方、面々が快楽に疲れ果てた体を引きずって海辺に出ると、見たことのない怪魚が砂浜に打ち上げられていて、腐敗し悪臭を放つその姿は自分たちのようでもあった。
彼方から、以前街で会った天使のような美少女パオラが何か叫んでいるが、その声は波に消されて彼の耳には届かない。清純さに溢れた少女に背を向けて、マルチェロは再び別荘へと戻って行った。
《感想》年代的には『カビリアの夜』と『81/2』の間に当たる。
前作『カビリアの夜』では信仰は集団的熱狂の場に過ぎないと、神による救済に疑問を投げかけていた。本作でもヘリで運ぶ巨大なキリスト像、聖母マリアを巡る子どもと群衆の大騒動のシーンには信仰を揶揄する眼差しが見えるし、連夜繰り広げられるブルジョアたちの狂宴、浜辺に打ち上げられた怪魚には刹那主義が行き着く先の絶望が感じ取れる。
その結果、本作はカトリック教会などから退廃的と批判され物議を醸して、フェリーニは映画監督として窮地に追い込まれ、次の『81/2』では自身の内面を語り出してシュールな表現を主体とする新境地に至っている。
明確なストーリーや分かりやすいメッセージがある訳でなく、エピソードの羅列という印象だが、通して描かれるのは嘘偽りの“虚像”に支配された世界ばかりで、問うのは「神による救済の真偽、人の真の幸福」ということか。
ところで、マルチェロの運命を暗示するエンディングも意味深で解釈に窮する。彼の享楽的な生活の裏には寂寥感があって本当は誠実な暮らしを望んでいる。しかしインテリで円満な家庭を持つ友の自死で彼のさまよえる魂は暗礁に乗り上げてしまった。常に「人生を変えなければ」という思いと変えられない葛藤に捕らえられているが、そんな男に救済はあるのか。
ラスト、美少女パオラに再会する。彼を見送る彼女の微笑はきっと、その後に“天使の救済”が訪れる予兆のような気がしている。と、ややポジティブな解釈をした。
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