孤独な男女のダラダラ逃避行
《公開年》1994《制作国》アメリカ
《あらすじ》フロリダ南部の地方都市。専業主婦のコージー(リサ・ボウマン)は、夫のボビーと二人の子どもと暮らし、子育てと家事の繰り返しの単調さに孤独と鬱々とした思いを抱えていた。
ある日、コージーの父で刑事のライダー(ディック・ラッセル)は街で窃盗犯を追いかけている途中、携帯していた拳銃を失くしたことに気付く。それを後日若者が拾うが、始末に困った若者は友達のリー(ラリー・フェデンセン)に預けた。
夜、子どもを寝かせつけたコージーは、フラッと衝動的に家を出て街の酒場に入り、そこでリーに出会う。話すうちにリーの「友人宅のプールへ」という誘いに乗って、他人の家の塀を乗り越えプールで遊ぶ。そして二人がふざけて拳銃を扱っている時に住人が現れ、その住人に向けて発砲してしまう。暗闇なので詳細が分からないまま、慌てて二人はその場を離れた。
二人は地元のモーテルでひっそりと潜伏生活を始めるが、自分たちが殺人犯になってしまったと思い込み、テレビに自分が容疑者として追われている想像を繰り返す。法の一線を超えて生きている自分が、新しい自分であるような新鮮な気分に捉えられた。
これからの逃走資金を得ようと二人はリーの実家に出向き、小銭と母のレコードを持ち出して逃亡の旅に出る。しかしプールの住人は生きていて、ライダー刑事らの事情聴取を受けていた。一方、リーの母親は盗難の被害届を出し同じように事情聴取を受けていた。そして警察では、弾痕から犯行に使われた拳銃がライダーの物と判明し、行方不明の娘コージーとの関係が疑われる。
持ち出したレコードは思うように金にならず、リーはコンビニ強盗をしようとするが、突然割って入った強盗に金を横取りされる始末で、全てうまくいかない。たまたま覗き見したプールの家で、リーはあの住人が生きていることを知るが、コージーには話さなかった。
意を決した二人は車でニューヨークに向かうことにする。だが高速道路を無賃突破しようとした途端、止められて料金が払えずにUターンさせられる。
行く当てのない車を走らせて、運転するコージーは薄々気付いていたことを口にする。「誰も殺していないし、追われてもいない。何者でもない」。話さなかったことを詫びて、リーは「普通に暮らしていこう」と声を掛けた。
運転するコージーは、拳銃を助手席に向けて発砲し、誰もいない助手席の開いたままのドアを閉めて、拳銃を窓から捨てた。コージーは一人車を走らせ、そこにエンディング曲が流れる。「あの人は去ったから気ままに旅をする。誰にも分からない、そよ風のように自由だと。私だけ知っている、私の惨めさだけが‥‥」。
《感想》アラサーの主婦とニートの男は、共に鬱屈した日々を送るが何をしたいのかが分からない。そんな二人が拳銃を手に入れ、人を殺したと思い込むような事件に遭遇し、追われる恐怖と引き換えに非日常を生きる喜びに目覚めていく。
ニューシネマ風の展開で、70年代ならどこか遠方に突っ走ったのだろうが、20年後を生きた二人は行動を起こそうとしてもうまくいかず、地元周辺をウロウロするばかり。やがて自分が「犯罪者でもなければ何者でもない」ことに気付いた女は「普通に暮らそう」と言う男を捨てて車を走らせる。
このラストシーンが意味深に描かれる。女は助手席に向けて拳銃を発砲し、誰もいない助手席の開いたドアを閉めて、拳銃を窓から捨てる。しかし、男の死体は見えず、女は返り血すら浴びていない。女の妄想と思えなくもないが、元の日常に戻ることを拒否して男を撃ち殺した、と見るのが一般的か。
それからの女の表情は一変する。自分が犯罪者になったと思い込んだ時の、非日常を生きる喜びが蘇ってきたのだ。あの時は偶発的なものだったが、今度は自分の意志で日常を断ち切った。そこで得たのは自由と孤独、去来するのは得体の知れない虚無感。バッドエンドなのだろうが、ヤケクソ感にスッキリ感が伴ってくるのが不思議だ。
本作のポスター(道路の淵を綱渡りするように歩くコージー)がメッセージを象徴している。自分の道を自分らしく自分の脚で歩く、うまくバランスをとりながら。それは制作当時アラサーだった監督がコージーに託した自身の思いだったような気がする。
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