老いを演じる女優の葛藤と現実
《公開年》1977《制作国》アメリカ
《あらすじ》舞台女優のマートル・ゴードン(ジーナ・ローランズ)は、舞台『第二の女』の上演を控えリハーサルに取り組んでいる。それは老いをテーマにした舞台で、モーリス(ジョン・カサヴェテス)と夫婦役を演じている。最近の彼女自身、若い頃と中年になった自分のギャップに悩み、老いた自身が受け入れられずに、酒に支えられる日々を送っていた。
ある日、出待ちしていた熱狂的ファンの少女に目を引かれマートルが声を掛けると、ナンシー、17歳と答えた。少女が必死に何かを訴えているのを振り切って車を走らせた時、後方で少女が車に撥ねられるのを目撃する。
その日以来、マートルは少女の幻影を見ては若き日の自分と重ねるようになり、精神的な不調に拍車がかかっていく。酒の量は増し、舞台のリハーサルもうまくいかなくなり、舞台監督のマニー(ベン・ギャザラ)もマートルに手を焼き始める。
また、リハーサル中の舞台『第二の女』で、マートルが演じる中年女性の役があまりにも自身と重なることがストレスになっていく。内容は、「加齢とともに女の力を失っていく」という女性の第二の人生を巡って、年齢への価値観の相違から夫婦が対立する物語だった。マートルは役作りと現実の境目が徐々に揺らいで、「老人役にハマれば観客は老人だと思い込む」と葛藤するのだった。
プレ公演を迎えても苛立ちは消えず、舞台ではアドリブを連発して勝手気ままに振舞い、キャスト、スタッフを混乱に巻き込む。マニーは幕を下ろそうとするがマートルが下ろさせず、その混乱した舞台が客受けして、半分が絶賛し半分が怒るという結果になった。
ホテルに戻ったマートルはまたナンシーの幻影に襲われる。その幻影に年寄りと罵倒され、追い詰められ孤独感を募らせたマートルは、ますます狂気の様相を呈していった。
そして本公演初日を迎えるが、直前になってもマートルが現れず、楽屋で待つスタッフの前に現れたのは、泥酔して立つのもおぼつかないマートルだった。それでも公演中止にはせず、マニーは「演れなきゃ自分で幕を下ろせ」と投げて、抱きかかえられながら演じた舞台は滅茶苦茶。それでも、マートルが前夫の家庭を訪ねる第一幕を終えた。
第二幕の夫婦が対立する場面は、現夫役モーリスの巧みなアドリブに救われる。その自由奔放なアドリブ合戦は、深刻な話から一転してコメディのようで、製作者、脚本家、舞台監督の心配をよそに観客に受け入れられてしまう。客席の大喝采で終えて、幕が下りた舞台上は安堵と喜びに溢れた。
マートルは、避けられない老いを受け入れることで自身の不安を払拭し、それと共に女優として役作りの手応えをつかんだことを喜ぶのだった。
《感想》劇中劇という観客を惑わすための仕掛けがあって、現実と舞台が相互に影響し合う構成になっている。
今や中年となった舞台女優マートルは、若い頃の輝きを失った現在の自分が受け入れられず、たまたま出会った少女に若き日の自身を重ね、少女の幻影に惑わされて自分を見失っていく。
一方舞台で演じるのは、若さを失い第二の人生を歩き始めた女性が、老いを認めたくない姿勢を夫から責められ生き方に悩む物語。マートルは役作りと現実の境目が徐々に揺らいで、今まで意識しなかった「老い」を女優としてどう演じるか、葛藤する。
そして、脚本通り、演出家の指示通りにコントロールされた完璧な舞台をあえて壊すことで、今まで葛藤してきた役作りに手応えをつかみ、年輪を重ねた女優としての今後に希望を見いだす。また、自身も老いを受け入れることで不安を払拭し苦悩から解放されていった。
そこにはコンプリート芸術より即興を重んじるアンチ精神、“壊す”ことで生まれる生の感情の表出、それを大切にしたいインディーズ監督の気骨が見える。そして何と巧妙に仕組まれた映画かと思う。
しかし残念なことに劇中劇の内容が、アドリブを繰り返すうちシリアスなものからコメディ化していく、その観客受けするジョークの面白さが分からなくて、笑いの壁があることを感じた。
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