過去のトラウマに壊れゆく女
《公開年》1976《制作国》スウェーデン
《あらすじ》病院の精神科医エニー(リヴ・ウルマン)は、引っ越しの片づけを終えて、車で祖父母の家に向かった。祖父母の歓迎を受け、昔の彼女の部屋に案内され、食事と世間話のひとときを過ごす。その夜、寝苦しさから目を覚ましたエニーは、暗闇の中に厳しい眼をした老女の幻覚を見て恐怖に襲われた。
エニーの夫エリックはシカゴに出張中で、14歳の娘アンナは夏季キャンプに出かけている。病院での彼女は、マリアという患者を診ているが、一向に回復する気配がなく医師の無力さを感じていた。
ある日、主任医師の家で開かれたパーティーで、エニーはマリアの異母兄だという医師のトーマス(エルランド・ヨセフソン)と知り合う。食事に誘われ、彼の家に招かれたエニーは深夜まで語り合った。彼は数年前に離婚し、エニーは夫が愛人を作ったと打ち明ける。トーマスは引き留めたが、エニーはタクシーで祖父母宅に帰った。
家では、病気の祖父が老いていく恐怖に泣き、祖母がなだめていた。互いにいたわり合って老いを生きている、エニーはその様子を陰から見ていた。すると、マリアが今は空き家になったエニーの家で気を失っているという知らせが入る。
エニーはすぐに駆け付けるが、マリアを連れ込んだらしい二人の男が現れ、エニーはレイプされそうになる。頑なに抵抗する彼女に男たちは諦めて帰り、彼女は救急車を呼んだ。
ピアノ演奏会に出かけたエニーとトーマス。改めて彼の家に行ったエニーは、レイプ未遂事件を告白する。感情が高ぶり抑えられなくなって、泣き出して暴れる彼女をトーマスは必死になだめた。
家に送られたエニーは、翌朝祖母に起こされる。祖父母は週末を友人の別荘で過ごすという。一人になったエニーは、再び老女の幻覚に襲われる。「今の私は孤独でも悲しくもなく、安心している」と暗示をかけて、薬を飲み始め一瓶を飲み干してしまう。
発見したのはトーマスだった。彼は自分が同性愛者で最近失恋したことを打ち明けた。一方、一命を取り留め入院したエニーは、夢の中で、両親や祖父母と対面し、過ぎ去った幼い日への想いを初めて吐露するのだった。生前の母の干渉、叱責や、両親が事故死した後の祖母の虐待がトラウマになり、自分の情緒不安定が対人関係を壊して、夫や娘と愛情関係を築けずにいると。
夫と娘も駆け付けるが、二人ともエニーによそよそしく、夫は明日帰米するといい、娘は「ママは私が好きじゃない」と言って病室を去った。そしてトーマスも外国に行くと別れを告げた。
エニーは祖父母宅に戻り、二人の強い絆と信頼に思いを巡らせ、そこに人間の尊厳と謙虚さを見る。「愛が全てを包み込んでいる。死までも」と思った。
そして電話を取り、明日から出勤する旨を病院に伝えた。
《感想》精神科医のエニーは、治療が進まない患者に無力さを感じ、夫や娘を心から愛せない孤独な自分に苦悩し、徐々に精神のバランスを崩していく。やがて、自分の過去と対峙し、事故死した母親との愛憎、育ての祖母による虐待、それらのトラウマが自分の情緒不安定を招き、対人関係が築けない孤独な自分を作り上げたと理解していく。
しかし今は、死にゆく祖父を祖母の愛が支えていて、孫の自分を優しく包み込んでいる。人間は、愛も憎しみも、優しさも怖さも併せ持つ存在であること、そして愛は「死をも包み込む」大きなもので、愛にこそ人間の尊厳があると気づく。心の内を全て吐き出し浄化されて、抑圧から解放されていく、という物語。
当初、ラストシーンに違和感を持った。夫も娘も親しい男性も去り、愛を失った孤独な身なのに、愛の大きさに心動かされ立ち直る、という無理に希望を持たせたラストは短絡的ではないかと思えた。でもそうではなく、「いずれ愛と死は一つになる」、どんな愛にも終わりがある、そんな諦観が彼女を立ち直らせたのではないか、とも思えてきた。解釈は多様だ。
家族との確執や自己洞察はいつものベルイマンだが、安直なのか深いのかはよく分からない。老いと死、愛と憎しみ、それら人間存在の苦悩を具象化した映像で見せる、この離れ技こそベルイマンの持ち味だと思うが、それに傾き過ぎて混沌から抜け出せなかった気がする。
リヴ・ウルマンの、エニーの狂気が憑依したかのような演技が凄い。
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