学ぶとは、生きるとは
《公開年》2021《制作国》韓国
《あらすじ》1801年、李氏朝鮮時代の韓国。第22代国王正祖が前年に亡くなり、王位を継いだ純祖が幼少だったため、実権を握った貞純王后らは天主教(カトリック)を西洋の邪教とみなし、信者への迫害を始めた。
その対象には正祖の側近で学識豊かな丁(チョン)三兄弟も含まれ、長男の若銓(ヤクチュン:ソル・ギョング)は黒山島に流刑、次男の若鍾は逮捕された後に処刑、三男の若鏞は康津郡に流刑になった。
黒山島に到着した若銓を迎えたのは、島を取り仕切る役人の別将で威張り散らす小人物だったが、島人は罪人とはいえ偉い人と一目置き受け入れてくれた。
一人暮らし未亡人のカゴ(イ・ジョンウン)の家の居候になった若銓は、島の暮らしにも慣れ、豊かな海洋生物に恵まれた環境に暮らすうち、本来の学者気質の好奇心が頭をもたげてくるのだった。
そして島の若い漁師の昌大(チャンデ:ピョン・ヨハン)に出会う。昌大は海の生物に関する知識が豊富で、人の役に立ちたいと独学で学問に励んでいた。若銓はそんな昌大の知識と自分の学問を互いに教え合おうと提案した。
当初は流人である若銓を逆賊と拒否していた昌大だったが、学問をしたいという欲求が勝り、海洋生物の本をまとめたい若銓に協力し、見返りに漢詩や漢文を教わるという形で、交流が始まった。
実は昌大は、科挙の試験を受けて役人になり、出世して人の役に立ちたいと秘かに考えていた。彼の父親は両班(支配階級)で都に暮らし、彼は島で母と暮らす私生児だった。
そのうち、康津に流された弟・若鏞の弟子が訪れ、互いの学問を通じて刺激し合う関係も生まれる。だが、科挙を受けようと必死の昌大は、学問を巡って若銓と衝突しながらも、未熟な自分を悟り更に勉強を重ねた。
数年後、昌大は幼馴染のボンレと結婚し、若銓はカゴと結ばれ、二人とも子宝に恵まれる。そして昌大は、誰もが認めるくらいに成長し、そんな彼を役人にしようと父親が迎えに来た。
昌大は家族を連れて島を離れ、本土に移り住んだ。そこへ、弟の若鏞が赦免されたという知らせが入り、若銓家族も赦免に備えて、本土に近い牛耳島に引っ越した。
役人として働き始めた昌大だったが、死人赤子にまで税を課し、それで豪遊する役人の腐敗ぶりに馴染めず、反発して事件を起こす。死罪は免れ、茲山に帰島の身になった昌大は、その途中で若銓が住む牛耳島に寄った。
折しも若銓が亡くなったばかりで、手紙が残されていた。「鶴のように生きるより泥にまみれて生きよ」。昌大は、茲山で生きていくことを決意した。
《感想》国王付きの学者でキリスト教徒だった若銓が、迫害され流刑となった島で、豊富な海洋生物の知識を持ち、出世して人の役に立ちたいと独学する若者・昌大に出会い、互いの知識を教え合うようになる。
その刺激によって若銓は、人の生きる道より明白な事物「魚」について学ぼうと志し、庶民のための海洋生物学書『茲山魚譜』を著した。
一方の昌大は科挙の試験を受けて役人を目指し、夢を叶えて役人となったが、役人の腐敗ぶりに絶望し元の暮らしに戻っていく。若銓の「この国の主は民、願うのは王のいない平等な社会」という主張に反発していた昌大だったが、その真意を知ることになる。
若銓の「友を知れば己がよく見えてくる」という言葉が心に響く。
若銓は昌大に出会うことによって、いわゆる机上の学問から実学に目覚め、昌大は立身出世だけではない人間らしい生き方を知る。共に「師」に出会い、学問によって生き方を変えた。結局、何が正しいのかを見極め、生き方を模索するところに「学ぶこと」の意味があるのかと思う。
現在の韓国は相当な学歴偏重社会とか。教育制度のあり方への警鐘も含んでいる気がする。エンタメ重視の韓国映画産業というイメージがあるが、自国の歴史の検証、それを今に伝えようという真摯な姿勢を見て、その懐の深さを感じた。
史実に基づくがゆえに歴史的背景とか漢詩とか難解さがあって、教訓めいた堅苦しい印象だが、笑いあり涙ありの人情ドラマでもあった。
ただ、モノクロとした意図は理解できるものの、カラーならもっとネイチャー・ロマンの世界が引き出せた気がする。
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