オカルトを信じるや否や
《公開年》1958《制作国》スウェーデン
《あらすじ》1946年、ヴォーグレル(マックス・フォン・シドー)率いる魔術一座の馬車はストックホルムを目指していた。馬車にはヴォーグレルの他、妻で男装の助手アマン(イングリッド・チューリン)、薬の調合をする魔女のような祖母、御者も務める助手のシムノン、司会役のテューバルの5人が乗っていた。途中、倒れている男を見つけ馬車に乗せた。それは酒で身を持ち崩したというスペーゲルという名の元役者だった。
馬車は検問で止められ領事のエーゲルマンの館に導かれる。館にはエーゲルマンとその妻オッティリア、警察署長のスタルベック、医師のヴェルゲールスらがいて、格好の気晴らしとばかりに尋問を始めた。魔術を科学とは信じないがその神秘を知りたいと言われ、明日興行をすることを約束してその夜は宿泊した。
夜半、テューバルは言葉巧みに料理番のソフィーアを誘惑し、シムソンはメイドのサーラを口説いた。一方、ヴォーグレルの祖母は、彼女を魔女と信じる純朴なメイド、サンナの心を掴む。そして、死んだはずの役者のスペーゲルが息を吹き返してヴォーグレルの前に現れ、今度は本当に死んでしまう。
客間では領事の妻オッティリアがヴォーグレルを寝室に誘い、ヴェルゲールス医師はアマンが実は女であることを知り、魔術の欺瞞を追求した。
翌日、関係者を集めて魔術が披露される。彼らは空中浮遊の魔術の仕掛けを暴いて一座を笑いもののした。しかしヴォーグレルとアマンは、署長の妻に催眠術をかけて夫婦生活の秘密を暴露させ、下男のアントンソンに金縛りの術をかけた。ところが、術が解けたアントンソンは立ち上がるとヴォーグレルに襲いかかって首を絞め、ヴォーグレルは動かなくなった。
ヴェルゲールス医師はヴォーグレルの死亡を確認し、遺体を納屋に運ばせ検視解剖に臨んだ。すると、机に切り取られた手首が現れ、鏡にはヴォーグレルの姿が映り、ヴェルゲールスは夢か錯乱かと恐怖に怯え、逃げ出して階段から転げ落ちて、その先にいたのはヴォーグレル本人だった。彼は首を絞められた後に役者スペーゲルの遺体とすり替わったと種明かしをした。
警察に逮捕されるのを恐れて、ヴォーグレルとアマンは早く出発しようとする。テューバルはソフィーアと一緒になろうと残ることを決め、祖母は媚薬を売った金があるので一座を離れるという。代わりにサーラがシムノンに付いてくることになり、彼女の支度を待っているところに王宮からの使者が現れる。
国王の前で魔術を披露せよとの命が下り、今回の事件は不問とされ、一座の馬車は王宮に向けて出発した。
《感想》旅回りの魔術師一座を待ち受けたのは、領事、警察署長、医師といった非科学的なものを信じない連中で、魔術のトリックを暴こうとする。そして魔術を披露した一座は彼らに嘲笑されるが、お返しに催眠術や金縛りで科学信奉者たちの知られたくない一面を白日の下に晒した。
更に魔術の欺瞞を最も攻撃する医師は、死を確認した魔術師の遺体を検視解剖しようとして、あり得ない展開に夢か錯乱かと恐怖に怯え、非科学に恐怖し、科学で死の恐怖を振り払えなかった自分を認めた。
科学とは論理的に説明できるもの。だが人間は科学のみを信じて生きられるほど強い存在ではなく、オカルト的なものを求めてしまう弱く脆い存在。そして、神の不在を憂えて死んだ役者を登場させるあたりに、後の「神の沈黙」三部作の予兆を感じさせる。科学が進歩しても神を信じる人は絶えず、神もまたオカルトか。
ベルイマンには珍しい喜劇的な作風で、恋模様や幽霊騒動を散りばめた中に、ひねりの効いたアイロニカルな視線が見える。従来の堅苦しさから一歩抜け出て、俗っぽい寓話性とユーモアが感じられるが、それは決して明るい笑いではなく、ダークな含み笑いのようなものである。
経た歳月を感じさせないシャープなモノクロ映像が美しい。
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