狂騒で描く現代の孤独と虚無
《公開年》1968《制作国》アメリカ
《あらすじ》1960年代のロスアンジェルス。実業家のリチャード(ジョン・マーレイ)は、友人のフレディ、高級娼婦ジェニー(ジーナ・ローランズ)と共に酒場で盛り上がり、酔った勢いでジェニーの部屋に行き、更に飲み騒いでいる。フレディがジェニーに「値段」を聞いたことから、侮辱と受け止めたジェニーとの間が険悪な雰囲気になり、二人は部屋を後にした。
ジェニーに熱い思いを抱いて帰宅したリチャードは、妻マリア(リン・カーリン)に迎えられ、いつも通りの夕飯をとり、ベッドに入り冗談を言い笑い合うが‥‥。翌朝、リチャードは突然離婚を切り出した。マリアはただ呆然として、にらみ返すが何も答えなかった。
リチャードはジェニーに電話をして、会いに行ってしまう。ジェニーの部屋には、ビジネスマン風の二人の先客がいた。二人の娼婦に男が三人、険悪になったり打ち解けたり、揉めた末に皆を追い出して、二人きりになったリチャードとジェニーは急に親密になり、彼は泊まることになる。
一方、離婚話にショックを受けたマリアは、憂さ晴らしにおばさん友達と連れ立ってディスコに繰り出す。飲んで踊るうち、好印象の青年チェット(シーモア・カッセル)と親しくなり、友人たちと共に自宅にお持ち帰りする。
夫以外の若い男と過ごす時間に、女性たちはそれぞれ浮き足立つが、奔放なことを口では言いながら、友人はすごすごと帰ってしまい、やがてマリアは彼とベッドを共にする。
しかし、目覚めたチェットは、マリアが倒れていて睡眠薬自殺を図ったと知り、うろたえる。救急車を呼ぼうとして止め、シャワーを浴びせて薬を吐かせ、何とか意識を取り戻すことができた。再び抱き合う二人だった。
朝を迎えたリチャードは、ジェニーの不味い朝食に文句を垂れ、それでも上機嫌で帰宅した。すると、呼んでも妻は現れず、2階の寝室に上がると、上半身裸で窓から逃げ出すチェットの姿を目撃する。
夫は「不満は知っていたが予期していなかった。崇高なる不倫か」と罵り、妻は「こんな愛のない生活!」と返し、階段の途中にへたり込んだ二人は煙草を分け合って吸った。
そして救いようのない寒々とした空気の中、二人は2階と1階に別れるように歩いた。
《感想》1960年代のアメリカ社会は、物質的には豊かになるが、ベトナム戦争が始まって社会は混沌とし、人間関係は希薄になっていった時代。
そんな時代を背景に、中年実業家の良き夫と貞淑な妻は、自分の役割に疲れ、愛ある豊かな人生を求めて、奔放でワガママな娼婦、セクシーで軽薄な青年に走る。かつて二人にあったであろう愛が壊れ、埋め合わせるかのように“束の間の愛”を求めるが‥‥。
登場人物は一様に感動や面白さを求めて、から騒ぎや馬鹿笑いを繰り返し、怒り、笑い、沈黙しと感情が小刻みに変化する。感情の一貫性が見えないこの情緒不安定ぶりというのは、自分を保つための仮面なのか。本心が見えない。
軽薄な青年が自殺未遂の人妻に言う「誰もが本心を見せ合うほど、心に余裕がない。心を閉ざしたまま、皆ロボットになってしまう」と。それを聞いた人妻の顔は仮面をはずして安堵した素の表情だった。何か気づきが生まれたような気もする。
エンディングも、夫婦は罵り合った末に煙草を分け合って吸い、上下階に別れて行った。元のサヤに戻るのか、別れるのかは分からない。意味深なまま終わる。
ストーリーよりも役者のアップの表情とセリフだけで、緩むことのない緊張感を生み出し、その緊張感の中に浮かぶのは現代人の孤独と虚無。この演出力はさすがだが、疲れる映画ではある。
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