『赤い砂漠』ミケランジェロ・アントニオーニ

自然は壊され、心は病んで

《公開年》1964《制作国》イタリア、フランス
《あらすじ》舞台はイタリアの工場地帯で、林立する煙突から大量の煙が吐き出され、暗い冬空を重苦しく淀ませている。ジュリアナ(モニカ・ヴィッティ)は、工場技師の夫ウーゴ(カルロ・キオネッティ)や息子バレリオと共に裕福に暮らしている。
彼女は交通事故に遭ったショックからまだ立ち直れず、心の病を抱えたままでいる。この日も息子を連れて工場周辺を徘徊し、労働者が手にしていた食べかけのパンを無理に買い取って頬張るという異様な行動に出てしまう。
夫の工場を訪ねたジュリアナは、夫の旧友コラド(リチャード・ハリス)を紹介された。コラドは父親の跡を継いだ企業家で、新工場のための技術者や労働者を募集するために来ていた。ウーゴからジュリアナの病気のことを聞いたコラドは、彼女の立ち振る舞いに底深い孤独を見て関心を抱く。
数日後、コラドはウーゴ夫婦やその友人たちと海辺の小屋別荘へ遊びに出かけた。酒を飲んで男女6人の乱痴気騒ぎが繰り広げられるが、ジュリアナはいつになく明るい表情を見せるものの、ここでも周囲との接点が見いだせない。
やがて岸壁に大きな外国船が入ってきて、伝染病者発生の知らせだという旗が掲げられ、恐怖からみな一目散に小屋を後にした。車に戻ったジュリアナは突然一人で車に乗って桟橋を走り出し、その突端で急停車させた。それを見た友人たちは、彼女には自殺未遂の過去があることを知っているだけに、ただ黙って痛ましげに見守るばかりだった。
ウーゴが出張で出かけ、寂しさと心細さがジュリアナとコラドの距離を近づけた。そして息子バレリオの脚が急に動かなくなったと訴えた時、心配したジュリアナは息子にせがまれて「島の少女」の話をする。きれいな砂浜に帆船が近づき、人は見えず去っていったが、浜には優しい歌声が流れて‥‥という彼女の心の渇望を表すかの内容だった。
それからほどなくケロリとして歩き回るバレリオの姿を見た彼女は、息子でさえ私を必要としていないと思い込んでしまう。
錯乱状態になったジュリアナはコラドの部屋を訪れ、彼の腕の中に身を任せた。しかし、彼に助けられる訳もなく、かりそめの情事で心が満たされる訳もない。あてどなく港の外国船で違う世界に行きたいと思うが、出てきた船員とは言葉が通じず、諦めてその場を去った。
今日も息子を連れて黄色い煙を吐く工場周辺を徘徊するジュリアナ。孤独や不安のない世の中などない、何も変わりはしないと、自らに言い聞かせる。



《感想》冒頭のタイトルバックから、無機質な工場群がピンボケで映し出され、カラーでありながらモノクロのような荒涼とした世界が広がる。
この映画が作られた1960年代は、世界各国が高度成長の真っ只中にあって、経済優先の風潮から公害に対する問題意識がまだ薄かった時代。日本でも同様に、1950年代半ばから水俣周辺での異常事態が確認されながら、因果関係が特定されないまま過ぎて、水俣病の原因がメチル水銀であると国が公式認定したのは本作と同じ1964年だった。公害は深刻さを増していた。
そんな時代を背景に、「愛の不毛」三部作の延長にある本作が作られた。心を病み孤独と不安から抜け出せないヒロインの苦しみと、公害を放置する社会的な病理、心の貧しさを重ねているようである。
ジュリアナは家族や友人、恋の相手とも真の触れ合いができずにいるが、群れの中にいるからこそ関わりが避けられないまま、うまくコミュニケーションがとれずに抱く孤立感・疎外感というのもある。
病理について多くは語られないので判然としないが、押し寄せる近代化の波によって希薄化していく人間関係、見失いがちな自我、自己肯定感の消失など、“現代的な孤独”の象徴として描きたかったものと思う。
観念的な描き方で理解十分とは言い難いが、この独特の映像には惹きつけるものがある。モノクロに近い抑えた色彩で殺伐とした無機質世界を描きながら、時折、鮮烈な赤や黄の原色が画面を支配し、ヒロインの心の揺れを映しているかのようだ。また、人一倍鋭敏な感性を持つが故の苦悩を演じきったモニカ・ヴィッティの鬼気迫る美しさがしばらくは脳裏から離れない。

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投稿者: むさじー

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