家族の断絶と神の沈黙
《公開年》1961《制作国》スウェーデン
《あらすじ》島の別荘で休暇を楽しむ家族。作家のダビッド(グンナール・ビヨルンストランド)、彼の17歳の息子ミーヌス(ラルス・パッスガルド)、娘のカーリン(ハリエット・アンデルセン)、その夫で医師のマッティン(マックス・フォン・シドー)で、泳いだ後、父と娘婿は海に網打ちに出た。
そこでマッティンがダビッドにカーリンの病状が芳しくないことを告げる。彼女の精神分裂病は完治が望めず、再発の可能性があるという。
その夜は庭先で夕食を取り、作家として忙しいダビッドは子どもたちに旅のみやげを渡し、お返しに三人はミーヌス作の芝居『芸術の亡霊または幻想の墓場』を演じた。カーリンはミーヌスの父への嫌みだと言う。
夜になってマッティンが寝てしまうとカーリンは起き出し、物音に魅かれるように2階の空き部屋に行き、壁の向こうから大勢の人の囁き声を聞いた。そして欲情にかられ身悶えした。
朝4時、仕事中の父の部屋を訪ね、父のベッドで眠ってしまったカーリンは、父が外に出た後に目覚め、机の引き出しの日記を読んでしまう。そこには「カーリンの病気は治らない。耐えがたいが好奇心もある。病気の進行、壊れゆく様を観察し題材にしたい」と記されてあった。カーリンはマッティンを起こして泣き出し、マッティンは必死になだめた。
翌朝、ダビッドとマッティンがボートで沖に出て留守の時、カーリンはミーヌスを2階の空き部屋に連れて行き、「この部屋には神が現れる」と言う。ミーヌスは信じられない姉の言動に不安を抱いた。
二人が海岸に行くとカーリンは突然嵐が来ると言って走り出した。ミーヌスが追って探すと彼女は座礁した廃船の中にいて、カーリンが彼を誘惑し二人は関係を持ってしまう。
ダビッドとマッティンが海から帰り、ミーヌスから事情を聞いて、二人は慌てて廃船に向かった。カーリンは罪の意識でまた乱れ、弟との出来事を父に告白し、自ら再入院を望んだ。
入院の準備をしている間に、カーリンがいなくなって皆が探すと2階の空き部屋で誰かに話しかけていた。「もうすぐ神が来る」と祈るカーリンの姿に、マッティンは泣き崩れ、ダビッドはじっと見つめた。
救急のヘリコプターが着いて、カーリンは恐怖におびえ泣き叫ぶが、マッティンが打った鎮静剤で落ち着き、カーリンとマッティンは病院へと向かった。
残されたミーヌスは父ダビッドに、「姉と抱き合った時、現実が崩れた。もう生きられない」と言った。父は「神にすがれば生きていける。私の生きる縁(よすが)は、この世に愛があると確信すること。愛が神そのもの。そう考えると絶望から救われる」と答えた。それを受けミーヌスは「姉は家族に愛され神と共にいる」と話し、父の言葉に目を輝かせるのだった。
《感想》作家の父、17歳の息子、心の病を持つ娘、娘婿で医師の4人が、島の別荘で夏の休暇を過ごす。穏やかに見えた家族関係だったが娘の精神病を巡って、潜んでいた愛憎が次第に浮き彫りになっていく。
心が不安定で幻聴からくる奇妙な言動が目立つ娘だが、父は支えようとするより小説のネタにと好奇の目を向け、医学的完治を絶望視する夫は我が身の無力を嘆き、姉と関係した罪を背負う弟は生きる意欲を失ってしまう。
一方の娘は病に侵されていく恐怖から逃れたい一心で神を求めるが、家族に信じてもらえない孤独の中で身悶えし、救われることなく病院に戻っていく。
その時、娘を見送った父は、絶望の淵にいる息子に「神にすがれば生きていける。愛が神そのもの。そう考えると絶望から救われる」と言って、距離を感じていた息子を感激させる。しかし、心の底では神の存在を否定しながら、それを拠り所としての“愛”にすり替え、曖昧に肯定しているだけかとも受け取れる。
一方、もしかしたら、娘が神として求めたものは親である私の愛ではなかったか、病気を悪化させたのは作家の業を捨てきれなかった私のせいではないか、そんな気づきが促した言葉のようにも思えた。
息子を説得するための巧妙な詭弁なのか、それとも自責の念から息子に愛を語ったものか、解釈に窮する。
本作には、ベルイマンと厳格な牧師だった父親との不仲が、キリスト教への疑問(神の沈黙)、あるいは父子の問題として色濃く反映されている。
神とは、家族とは……視点によって多様な解釈を許す奥深さがある。
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