『夢の涯てまでも』ヴィム・ヴェンダース

“見ること”にこだわり抜いた実験作

夢の涯てまでも  ディレクターズカット版

《公開年》1991《制作国》ドイツ、フランス、オーストラリア他
《あらすじ》ディレクターズカット版(上映287分)による。
1999年冬。インドの核衛星が軌道を外れ、世界が滅亡へと向かっている中、南仏を車で旅行していたクレア(ソルヴェイグ・ドマルタン)は、二人組の銀行強盗と接触事故を起こした。二人はレイモンドとチコといい、クレアは成り行きで強奪金をパリまで運ぶ仕事を引き受けた。
ニース空港で何者かに追われるトレヴァー(ウィリアム・ハート)を拾って、パリで降ろした後、別れた恋人の作家ジーン(サム・ニール)の許に身を寄せたクレアだったが、先ほどのトレヴァーにバッグの金を抜き取られたことに気付き、彼を追ってベルリンに向かう。
地元の私立探偵ウィンター(リュディガー・フォーグラー)を訪ね、トレヴァーが懸賞金付き指名手配犯であることを知り、クレア、ウィンター、ジーンの三人は彼の行方を追った。
リスボン、モスクワ、北京と追跡劇を展開し、東京でクレアはトレヴァーに再会するが、彼は失明寸前だった。そこで二人は箱根に行き、森老人(笠智衆)の治療によって視力を回復させた。トレヴァーが事情を告白する。
彼の本名はサミュエル・ファーバー(通称サム)で、父の科学者ヘンリー(マックス・フォン・シドー)は盲人にも映像が見えるカメラを発明した。そのカメラを手に盲目の母エディス(ジャンヌ・モロー)に見せる映像収集のために世界中を旅していて、新発明を狙うエージェントに追われていると話した。
二人はサンフランシスコに向かい、サムの姉エルザの姿をカメラに収めて、両親の待つオーストラリアに向かった。セスナで飛行中、核衛星の爆発による閃光が走り砂漠に不時着したが、避難民と共に村にたどり着いた。
早速、実験が開始される。カメラ撮影者の視覚から生じた脳の信号をダウンロードし、装置で送り信号に変換して、盲人の視覚野で再生するというもの。サムが収録した映像再生には失敗したが、クレアが撮影したエルザ母娘は成功した。しかし皆が踊りあかした大晦日、連日の実験の疲労からエディスが亡くなった。
次にヘンリーは、夢を映像化してテレビのように見られる実験に取り組み、サムとクレアが実験の被験者になった。おぼろげながら夢の映像を体験していく二人だったが、やがて自身の夢を鮮明にしようと必死になり、夢にのめり込んで離れられなくなる中毒症状が現れてきた。夢遊病者のように現実感を喪失した二人は、精神的な破綻を来たしていく。
そんなクレアを夢の中毒から救い出したのは、ジーンが書いたクレアにまつわる小説で、物語の魔法と癒しの力だった。サムは、アポリジニの長老の力で夢を消して立ち直り、その後、サンフランシスコでクレアに再会した。

《感想》世界中の映像を収集しようと旅する男とそれを追う女、その恋人の作家、私立探偵に銀行強盗犯まで加わって追跡劇を展開するロードムービーが前半。後半はアポリジニの村で暮らし、男の父親が発明した盲人にも映像が見えるカメラと、夢の映像化の実験といういかにもSFの世界になる。
そして前半は旅から旅へとテンポ良く展開したが、後半は急にマッタリしてくる。そのマッタリ感が半端なく長く、どこに行き着くのか観客は戸惑う。
監督自身、一貫したテーマがあった訳でなく、大まかなプロットに沿って物語を追いかけたらこうなったというような、ヴェンダースの世界観だけで出来上がった映画のような気がする。
映画の核心は、旅が落ち着いた後半にあるのだろう。
先住民のアポリジニたちは、昔から人間の知覚だけで自分たちの文化を語り継いできたが、現代人はテクノロジーによって知覚以上の能力を望んだその結果、機械に飲み込まれて中毒症状を起こし壊れてしまう。同じように核衛星の爆発で世界滅亡へと向かう状況は、テクノロジーの破綻からだ。
テクノロジーの進化で人は豊かになったかと問い、テクノロジーの限界を言いたいのかと思うが良く分からない。
前半の旅の映像は、近未来とレトロがない交ぜになった不思議空間で、美しく楽しいものの、哀愁と温もりのヴェンダース節は薄い。
失敗作と言われているが、それでもバージョンを重ねこだわり抜いた実験作であり、監督の思いがどこにあるのかと思うと別の感慨が湧いてくる。

※他作品には、右の「タイトル50音索引」「年代別分類」からお入りください。

投稿者: むさじー

名画座通いの昔からネット配信の現代まで、映画選びのモットーは温故知新、共感第一、ジャンル無節操、です。 映画は時代と人生を映す鏡。心に響くドラマと愉悦を求めて、偏屈映画ジーサンをやっています。ボケ防止のレビューを書きながら。