人生を模索する高齢漂流者の哲学
《公開年》2020《制作国》アメリカ
《あらすじ》2011年、企業城下町だったアメリカ・ネバダ州エンパイアの町は、企業の倒産で全住民退去を迫られ、ここで長年働いた夫を亡くしたファーン(フランシス・マクドーマンド)は、1台のヴァンに必要な物を詰め込み、ノマド(放浪の民)として車上生活を始めた。
季節雇用の仕事を転々としながら、冬にはAmazonの倉庫仕事をして、自由ではあってもその日暮らしの生活は、決して楽ではない。
ある日、ノマド仲間のリンダに誘われ、ボブ・ウェルズが主催するノマド生活者のキャンプに参加し、車上生活をする上での知恵や技術を学ぶ機会を得る。ほとんどが高齢の破産者だった。
心を閉ざし他人との交流を拒んでいたファーンは、少しずつ人との繋がりを持つようになるが、イベントが終了すると、参加者はまたそれぞれの旅に戻っていった。
キャンプ場に残ったファーンは、そこで知り合ったデイブ(デビッド・ストラザーン)の誘いで公園のレストランの仕事に就き、共に時間を過ごすうちに二人の仲は深まっていった。
そんなある日、職場にデイブの息子がやってきて「一緒に住もう」と誘われてデイブは迷うが、そんな彼にファーンは家族の元に行くことを勧めた。デイブから「一緒に行かないか」と誘われるが、ファーンは近いうち寄ることを約束して、一人旅立った。
ファーンは工場で働き順調に仕事をしていたが、ある日車が故障して多額の修理費が必要になり、お金の工面のため姉の家を訪ねることになる。姉から「ここに住んだら」と誘われるが、再び車上生活に戻った。
巨木が立ち並ぶ森の中を歩き、透き通る川の流れに裸で浮かぶファーンは、大自然の偉大さを体全体で味わう。
次にファーンは、約束していたデイブの家に寄るが、すっかり腰を落ち着かせ、孫の世話を焼く良いおじいちゃんになっていて、彼から同居を誘われる。しかしベッドより車内の方が寝やすく、ここに自分の居場所はないと感じて去ることにした。
時は過ぎ、今年もノマド生活者のキャンプに参加したファーンは、ノマド仲間のスワンスキーの死を知る。彼女は末期のがんを患いながら「病院で死を待つのはイヤ」と最後まで旅を続けることを選び、思いのまま生きた。
そんな彼女を弔い主催者のボブは「ノマドは別れるとき“またいつか”と言い、“さよなら”は言わない。どこかで会えると信じている」と言う。また「息子の死で深い悲しみの中にいたが、同じ境遇の人を助けることが生きる気力になった」とも言う。
思い出を引きずり過ぎていたと気づいたファーンは、夫と暮らしたエンパイアの家に行き、倉庫の荷物を全て処分し、気持ちが吹っ切れたかのように再び旅立っていった。
《感想》経済不況による企業倒産と夫の死を契機に、社会とか家庭とか全てのしがらみを捨て、これからの人生を模索しようとノマド生活を始めるが、その旅は決して楽ではない。
まして老いた女性の一人旅には、金銭的な苦労だけでなく、身の危険や孤独死の不安も付きまとう。否応なしに強く“死”を意識させられる。
仲間は「死ぬ前に後悔したくない」「病院で死を待つのはイヤ」と行動に移すが、自分に正直に、自ら選んだ道という自負はうかがえるものの、やはり寂寥感が漂う。
だが映画は、ノマドという生き方を貧困や格差社会へのアンチテーゼ、資本主義の犠牲者という風には描かず、かといって今風の自由な生き方と美化する訳でもなく、その生き方をそのまま描いて、“これが現実”と提示するだけで声高に叫ぶことはない。
むしろ観客が我が身に置き換えて、“喪失”への向き合い方、人生の終わり方、精神的豊かさなど、いろいろ考えさせられる。
全編ドキュメンタリー風で、キャストの大半に本物のノマド生活者を起用してリアルな空気感を出していることと、大自然の迫力ある映像が素晴らしい。
しかし、ヒロインはなぜ家を捨てて“放浪”に出たのか、なぜ姉や好意を寄せる人からの同居の誘いを断ったのか、何に苦悩し葛藤しているのかがよく見えないから、ヒロインへの共感とか感情移入が難しい。
そして、ドラマ作品としては物語の起伏に欠け、映画のメッセージが漠として不明瞭であることも否めない。
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