神父による過去を告発し今を生き直す
《公開年》2019《制作国》フランス
《あらすじ》2014年、フランスのリヨン。妻や子どもたちと幸せに暮らすアレクサンドル(メルヴィル・プポー)は、幼い頃の友人から、幼少期に自分を性的虐待したプレナ神父がいまだに子どもたちに聖書を教えていて、自身の身近に戻りつつあることを知る。そこで、過去に葬っていた自らの経験を子どもたちに話し、プレナ神父告発を決意した。
教会側責任者のバルバラン枢機卿に相談すると、アレクサンドルに共感は示しつつも裁こうとはせず、仲介によって会ったプレナ神父からは小児性愛という“病気”を理由に謝罪の言葉が聞けず、教会側は公にしたくない考えだった。
不信感を募らせたアレクサンドルは、自分の事件は時効になっているが、まだ時効にならない被害者がいるはずと、プレナ神父に対する告訴状を提出し、その訴えで警察が動き出す。
警察は、かつて枢機卿宛てに届いたある少年の母親からの告発の手紙を発見し、今は大人となり働いているフランソワ(ドゥニ・メノーシュ)を訪ねると、初めは証言を拒否したが、次第に怒りがこみ上げ、全てを告白した。
フランソワはバルバラン枢機卿に宣戦布告し、マスコミにも登場して大々的にアピールした結果、バルバラン枢機卿が謝罪し反省の声明を出した。これがきっかけで被害者の声や証言が集まって、「沈黙を破る会」が設立され、最初の告発者アレクサンドルも加わった。
「会」の記者会見の様子が新聞に載り、それを見たエマニュエル(スワン・アルロー)は突然痙攣発作を起こした。彼も被害者で、そのトラウマから恋人とうまくいかず、家庭も持てず後遺症に苦しんでいた。
そして会を通じてプレナ神父に直接面会し、その席でプレナは詫びたが、その当時司祭からの対応はなかったと聞かされ、教会への不信を強くする。
こうして被害者の輪が広がり、教会への抗議の声は高まり、プレナ神父は自らの行為の非を認め起訴されるが、教会側の会見でバルバラン枢機卿は隠ぺいを否定し、一神父の問題行動で済まそうとした。
「会」の活動が認められてリヨン市民賞を受け、祝いの晩餐会でエマニュエルは「人生が変わった」と礼を述べたが、会を存続すべきか否か、これからカトリック教会とどう関わっていくか、意見は分かれた。
フランソワの「信仰を撤回する」という意見に対し、アレクサンドルは「大切なのは内なる信仰」と反論したが、帰って来た息子から「今も神を信じるか?」と問われ、答えに窮するアレクサンドルだった。
プレナ神父、バルバラン枢機卿の裁判は現在も審理中である。
《感想》幼少期に教会の神父から性的虐待を受けた3人の男が、深いトラウマから抜け出そうと、事件を隠蔽してきた教会側を告発し追い詰める。
アレクサンドルは、信仰を持つ家族が同じ被害に遭わないよう勇気を振り絞って告発し、フランソワは教会に対峙しようと市民運動を展開し、後遺症で苦しんでいたエマニュエルは、運動に参加することで自分の人生を取り戻した。
そして、誰もが信仰への揺らぎを感じてしまう。信仰を撤回すべきか、信仰の内なる力を持って変えていくべきか。
映画は、3人それぞれの視点でリレーするように展開し、その苦悩に寄り添い、事件に対して誠実に、静かな怒りを込めて訴えかける。
裁判が進行中であることと、被害者の立場を考慮して、犯罪そのものの描写は婉曲的なものにならざるを得ないが、惜しまれるのは加害者である教会の内幕が見えず、確かな弁明が聞けなかったこと。
責任者である枢機卿の弁からは重大な犯罪であるという危機感が感じられないし、被害を受けてもなお、信仰から離れられない信者の依存心も理解し難い。
「信仰とは何なのか?」という根本的な疑問に立ち返ってしまい、映画も疑問符のまま終わる。
同じ題材を扱ったアメリカ映画『スポットライト 世紀のスクープ』がマスコミの取材攻勢で真実を解明していく社会正義的視点で描かれていたのに対し、本作は被害者の視点でその苦悩、葛藤を軸に描いている。
アプローチの仕方で大きく変わるものと感嘆しながら、米仏の映画文化の違いを見ているようで興味深かった。
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