時代に翻弄された庶民の哀歓
《公開年》1994《制作国》中国
《あらすじ》1940年代の中国。資産家の息子・福貴(グォ・ヨウ)は、サイコロ賭博に負けて借金がかさみ、家屋敷を遊び仲間の龍二に取られてしまう。
身重の妻・家珍(コン・リー)は娘・鳳霞を連れて実家に帰り、怒った父は悶死してしまい、残された装身具などを売りながら病身の母と暮らしていたが、やがて家珍が出産した息子・有慶を連れて戻った。
今度こそ賭博と縁を切り真面目に働こうと、得意の歌を生かして影絵芝居の劇団を興し巡業に回るが、蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党の内戦で国は分裂状態にあって、国民党軍に徴用された福貴らは荷役夫として過ごすことになった。
しかし国民党軍は惨敗してしまい、福貴らは共産党人民解放軍に捕らえられるが、影絵の特技で命をつなぎ家に戻ることができた。だが母は既に亡くなり、娘・鳳霞は高熱で言葉を失っていた。
世の中は人民解放軍の支配下になり、かつての仲間・龍二は家屋敷の接収に応じなかったため、“反革命分子”として処刑された。
1950年代。大躍進政策の名のもとに、国民は全ての鉄製品を政府に供出させられ、福貴ら家族も“共産食堂”で食事をするようになる。
「偉大なる毛首席」を掲げて不眠不休の重労働が続き、幼い子どもらですら睡眠不足で倒れていく中、学校に出向いた息子・有慶が、福貴の仲間・春生が起こした事故で亡くなり、家族は悲しみに沈む。
1960年代。年頃の娘となった鳳霞の元に縁談が舞い込み、足は不自由だが働き者で真面目な工場労働者・二喜と結婚する。
世には文化大革命の嵐が吹き荒れ、旧悪である過去の英雄を扱った影絵人形は「反革命」とされて焼き払われた。また、夫婦と仲違いしていた区長の春生や、親切だった町長は、「走資派」と呼ばれて公職追放され弾劾された。
そんな中、出産を控えた鳳霞は、家族に連れられて病院に行ったが、ここで勤務するのは「紅衛兵」の腕章を付けた少女ばかりで、経験豊富な医師は、すべて「反動分子」として拘束されていた。
何とかごまかして医師を連れてくるが、空腹の医師に饅頭を食べさせたところ、饅頭を喉に詰まらせた医師は身動きがとれず、鳳霞は両親と夫が見守る中、出産の後に出血多量で亡くなった。
歳月は流れ、娘が残した孫の饅頭や二喜と一緒に、老夫婦は亡き二人の子どもの墓参りに出かけ、墓前で「活きる」ことの重さを噛みしめた。
《感想》1940年代の中国。賭博がもとで資産家から無一文になった男が、道楽だった影絵芝居で人生をやり直そうとするが、その後の国共内戦、大躍進政策、文化大革命という時代の波に翻弄され、それでも妻と共に苦難を乗り越えていく。
“革命の時代”の内実に驚くが、そんな時代を恨むことも絶望することもなく、受け入れて生きた主人公夫婦は、なぜそれほどポジティブになれたのか。
楽観的な気質に加え、運命と諦め達観したところもあるが、“すべては子どものために”という家族愛がしたたかに生き抜く力になっている気がする。
その希望を見失わない強さ、たくましさには素直に感動する。
本作では影絵芝居が、受け継がれてきた伝統文化としてだけでなく、庶民の娯楽の重要な小道具として登場し、ダメ男を蘇らせ、生きる支えになり、後に「伝統芸能は反革命」と糾弾され焼かれてしまう。
だが空いた木箱は残されていて、やがて孫が飼うヒヨコの家になった。こんな影絵人形の役割や運命も物語に深みをもたらしている。
また本作は、共産党批判で中国政府から上映を差し止められたという。
「深夜の重労働」や「知識人の公職追放」という共産党政策によって子どもを亡くしたという内容によるが、単なる反政府映画というより、どんな状況にあっても必死に生き抜いた庶民とその時代を描いた、叙事詩的な映画だと思う。
そんな庶民の哀歓を淡々と、ユーモアを交えて描いている。
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