『風が吹くまま』アッバス・キアロスタミ

死を待って、生きる意味を知る

《公開年》1999《制作国》イラン
《あらすじ》イランの首都テヘランから700キロ離れた山村。そこで行われる珍しい葬儀を取材しようと、TVディレクターのベーザード(ベーザード・ドーラーニー)はクルーと共に機材を積んで村へと向かう。
しかし村に着くと、瀕死だった老婆が持ち直したと、案内役の少年ファザードから聞かされる。こうして一行は村で為すすべなく日を送り、次第にその死を待つようになる。
村人は彼らがTVクルーではなく電話技師だと思い込んでいる。村には電話が通っていない。
そんなベーザードの携帯電話には何度も雇い主のグダルジから催促の電話がかかってくるが、電波が遠くて聞こえないため、その度にわざわざ村で一番高い墓のある丘まで車を走らせる。その丘で彼は井戸を掘ろうと穴を掘り続ける青年に出会い、穴から人の脚の骨を拾った。
3日のはずが2週間になり、暇を持て余す日々ながら、グダルジからは催促され、スタッフからは決断を迫られ、苛立ちが募ったベーザードは「ツルハシ一撃で息の根を止めれば片が付くが……」と愚痴る。そしてファザードに八つ当たりする。
村の教師から葬式の様子を聞くと「情愛を示すために自らの顔を傷つけ、競って泣きはらす。生活の貧しさが儀式になって受け継がれている」と明かす。
そんな矢先、電話で呼び出され丘に向かったベーザードは、穴掘りの青年が生き埋めになっている現場に遭遇し、村人に知らせて救出した。
青年は町の病院に運ばれ、ベーザードはやってきた医者に例の老婆の診察を依頼し、医者のバイクに乗って老婆の薬を町まで取りに行った。
医者は言う「最も残酷なのは人の死。なぜならこの美しい世界をもう見ることができないから」と。
生き埋め青年の必死の救出によって「生」を体で感じ取ったベーザードは、もはや老婆の「死」に意味を見出せなくなり、村を出ようと決心していた。
翌朝、帰り支度をしたベーザードが老婆の家を覗くと、死を悼む泣き声がしていた。
しかしクルーは機材を持って先に引き上げてしまっていて、去り際に彼は遠くから葬列に加わる女たちの姿をカメラに収めた。
そして彼は墓の丘で拾った脚の骨を小川に流し、車で村を去った。

《感想》山村の珍しい風習の葬儀を取材しようと訪れたTVプロデューサーは、不謹慎にも老婆の「死」を待ち続けていたが、偶然出会った生き埋め青年の必死の救出劇を経て「生きる」意味を実感していく。
前作『桜桃の味』では剥製師の老人に語らせていた死生観を、本作では村の医者に語らせている。「この世界は美しい。死は残酷だ」と。
ただ本作は純粋のフィクションというより、取材する側の視点からドキュメンタリー風に描いている。
麦の穂が揺れる美しい自然の中で、大人は農作業に精を出し、子どもは遊んで勉強して家の手伝いもする。そんな平凡な毎日を生きて、人生はその繰り返しで過ぎていく。
監督が抱いている幸福感は多分、自然に囲まれて、小さな幸せを感じながら、気楽に生きること。風が吹いたら吹かれればいい。
作風もおおらかで、テーマと大枠のプロットを決めて、細かいシナリオは成り行きで作ったのではないかという気がする。
ただし、登場人物は巧妙に設定されている。撮影クルーの仲間、穴掘りの青年、その恋人の娘は声だけの登場で、瀕死の老婆や携帯電話の相手は声すら聞けない、見えないことで想像を掻き立てられる。
そして自然の営みが気持ちを開放する。牛の交尾、ひっくり返った亀、フンコロガシの営み、人間と同様に生きていることを実感させる。
あまりに淡々としていて、映画的刺激には欠け、風が吹くままのような演出を退屈と感じるかも知れないが、観客がその世界で自由にくつろげる懐の深さのようなものがある。

※他作品には、右の「タイトル50音索引」「年代別分類」からお入りください。

投稿者: むさじー

名画座通いの昔からネット配信の現代まで、温故知新、共感第一、ジャンル無節操、が映画選びのモットーです。 映画を通して人生を見つめたい、そんな思いで“映画の旅”をしています。