自殺願望男で描く人生賛歌
《公開年》1997《制作国》イラン
《あらすじ》イランのある町で、ゆっくり車を走らせる中年男のバディ(ホユマン・エルシャディ)は、スラム街で金の欲しそうな青年に車に乗るよう誘うが断られ、道端でプラスチック集めをしている青年に金になる仕事があると声を掛けるが、これも断られる。
次にヒッチハイクをするクルド人の若い兵士に出会って助手席に乗せ、色々と身の上話を聞いた上で、バディは金になる良い仕事があると持ち掛け、仕事を明かさないまま、不安がる兵士を無理やり小高い丘に連れて行く。
そこに掘られた穴の前でバディは兵士に「明朝、この穴で寝ている私に声を掛け、生きていたら助けてくれ。死んでいたら土をかけてくれ」と頼んだが、兵士は恐れをなして逃げ出した。
やがて丘の砕石工事現場の小屋で、ミキサー車の見張りをしているアフガニスタン人の青年と話し込むが、青年には断られ、休日でこの地を訪れていた友人の神学生(ホセイン・ヌーリ)を車に乗せる。
車中でバディは兵士に話したように自殺幇助を依頼するが、神学生はバディの話を聞いた上で「自殺は過ち。体は神からの賜りもの。自殺幇助も人殺し」と断られる。
バディは続いて、トルコ人の老人バゲリ(アブドルホセイン・バゲリ)を車に乗せ仕事の依頼をすると、バゲリは、病気の息子の治療費のために引き受けると言い、自分の過去を語り出した。
若い頃に生活苦から、桑の木で首を吊ろうとした時、桑の実が手に触れてその実を食べた途端、景色が一変して幸せな気分になり、生きることを選んだという。
「生きていればいろんなものに出会える。この世の味、桜桃の味を忘れてしまうのか」と人生の幸せを語り続けたバゲリは、仕事先の自然史博物館で車を降りると、「息子のためじゃなければやらない。きっと全てうまくいく」と伝えて別れた。
しばらく車を走らせたバディは、通りすがりの娘からシャッターを押して欲しいと頼まれてそれに応じ、感謝の気持ちを込めた娘の笑顔に触れた後、突然来た道を戻って博物館へと向かった。
再びバゲリに会ったバディは、「明朝、もしかしたら眠っているだけかもしれないので、小石を投げ、肩をゆすってくれ」と付け加え、バゲリは了承した。
帰宅したバディは睡眠薬を飲むとタクシーで丘の上に向かい、深夜の街の景色を眺めてから穴で横になり、月を眺めながら静かに目を閉じた。
画面が暗転した後、映画の撮影風景に切り替わり、本作の出演者、監督、スタッフ、エキストラたちの様子が映し出され、『サマータイム』が流れる。
《感想》人生に絶望した中年男バディが、自殺を手伝ってくれる相手を探す物語。だが、本当に死にたかったのか、自殺を止めて欲しかったのでは、と思えてくる。
話を聞いて若い兵士は恐れおののき、神学生は「自殺幇助も人殺し」と断るが、老人バゲリは引き受けて、自らの経験談、幸福論によってバディの深層に潜む想いを素直に引き出していく。バディが「眠っていたら起こして欲しい」と念押しした時点で、死ぬ決意は薄らいでいたのかも。
だが、物語としての結末は明らかにしていない。
突然暗転し、粒子の荒いビデオ画像でそれまでの荒れ地に緑が生い茂り、続いて映画の撮影風景に切り替わっていく。
生い茂った緑は、何となく「生命の息吹」を表現しているかのように見え、死んではいないことを予感させるが‥‥。
同監督は前作「コケール・トリロジー3部作」で、イランの日常を創作と現実をない交ぜにしてドキュメンタリー風に描いたが、本作は全編フィクションで通し、テーマを「生と死」に置いて問答で展開する、従来にない深遠にして内省的な作品になっている。
それなのになぜ突然、映画の撮影風景というエンディングを持ってきたのか、奇異に感じるし、その意図がはっきりしない。
あえて勘ぐると、「映画で描いたフィクションに過ぎないから、結末の解釈はご自由に」ということか。それとも、出演者はじめ関係者がみな楽しげで、物語になかった「現実に生きている喜び」を表現したかったのか。深読みを誘うが、それこそ各人が自由に感じればいい、と言われそうな気がする。
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