『田園に死す』寺山修司 1974

記憶の呪縛を解こうと過去をたどる

《あらすじ》中学生の私(高野浩幸)は、父を戦争で亡くして母(高山千草)と二人で恐山の麓の村で暮らしている。思春期の少年らしく、近所の若妻に憧れ、包茎に悩んでいた。
母に叱られたある日、私は恐山のイタコに呼び出してもらった父に、春になったら口うるさい母を残して家出しようと考えていることを打ち明ける。
ある日、村にサーカスの一団がやってくる。団員たちは各自一つずつ時計を持っていて、家に柱時計一つしかない私は衝撃を受け、腕時計が欲しいと母に言うが取り合ってもらえなかった。
近所には美しい人妻(八千草薫)が住んでいて、私は徐々に親しくなっていくが、ある日、一緒に汽車で夜逃げしようと駆け落ちを持ち掛けられる。人妻は、無理やり連れてこられた嫁ぎ先の暮らしに嫌気がさしていた。
私は人妻の荷物を自宅へと運び出し、母が寝静まった頃、荷物を持って家を出て待ち合わせの駅に向かい、私と人妻は線路伝いに歩いて旅立った。
それから20年が過ぎ、現在の私(菅貫太郎)がいるのは映画の試写室。ここまでのストーリーは“私”の自伝映画の一部だったことを明かす。
私は映画評論家と酒を飲みに行き、私が「原体験が現在を支える」と言うと、評論家は「記憶から解放されないと自由になれない」と言い、「もし過去に戻って三代前の祖母を殺したら、現在の君は存在するか」と問われる。
その答えを探しながら戻ったアパートで、20年前の私に出会い、実は、映画で描かれた私の少年時代は美化された虚偽のものだったと呟く。
現実は、すがりつく母を振り払って逃げるように家を出て、人妻との待ち合わせた駅に着いたものの人妻の姿はなく、探したあげく恐山で見つけた人妻は愛人と一緒だった。そして愛人に命じられ、私が酒を買いに行っている間に、二人は心中していた。
私は、いつの間にか20年前の故郷に戻っていて、そこで少年の私に出会い、二人は将棋を指しながら、現在の私が少年の私に過去の話を語る。
現在の私は、20年前に家出をするときについてきてしまった母と一緒に住んでいた。少年の私が母を殺したとしたら、現在の私ではなく、違う人間になれるのかを知るためにやって来たことを少年に告げる。
現在の私は、少年の私に母を殺すように命じ、凶器の鎌を取りに行かせるが、少年の私は途中で、東京から戻った村人の女に誘惑されて、一行に戻ってこなかった。
仕方なく現在の私は自分で母を殺そうと家に戻るが、母を殺すことは出来ず、二人はただ向き合って食事をするだけだった。
そして家の壁が倒れると、そこは現在の新宿駅前の人が行きかう雑踏で、それでも構わずに二人は食事を続けた。

《感想》映画監督の「現在の私」は、不思議な因習が残る村社会に生まれ、溺愛する母の呪縛から逃れようと、村を捨て、母を捨てようとした過去があるが、作りかけの自伝的映画を見ると、描かれたのは美化された“嘘”の過去だった。
評論家から「記憶から解放されないと自由になれない」と言われ、嘘のない真の過去を確かめるために「少年時代の私」に会いに行く。
そして自分の過去を変え、本当の自由を得ようと“母殺し”を決意するが、殺せないまま一緒に食事をしていると、そこはいつの間にか、現在暮らしている都会の雑踏になっていた。
母親の束縛愛、母親への愛憎相半ばした思いが強く迫ってくる。
ラストシーンでは、田舎の家のセットが崩れて都会の雑踏に変わる。
強烈なインパクトだが、死ぬまで母親から逃れられない自分を表しているのか。それとも、“セットの崩壊”によって物語がすべて、映画監督の私によって作られた“虚構”だと言いたいのか。
寺山作品の分析は困難なので、曖昧なまま受け止めることにする。
壊れた柱時計、白塗りの人たち、波打ち際の仏壇、おどろおどろしいサーカス小屋、川を流れるひな壇、田んぼ将棋……謎のシーン満載。
表現はシュールな寺山流不思議世界だが、ストーリーは比較的明確で、独特の感性で描かれたその特異な心象風景は、映画という形式でありながら、詩歌に生きた人の作であると感じさせる。

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投稿者: むさじー

名画座通いの昔からネット配信の現代まで、温故知新、共感第一、ジャンル無節操、が映画選びのモットーです。 心に響くドラマを求めて、映画の中の人生をあちこち旅しています。