中国激動の時代を生きた夫婦の哀歓
《公開年》2019《制作国》中国
《あらすじ》映画では頻繁に時間軸を前後させる構成をとっているが、以下のあらすじは、ほぼ時系列で記す。
1986年の中国。ヤオジュン(ワン・ジンチュン)、ユーリン(ヨン・メイ)の夫婦と、同僚で同じ宿舎に暮らすインミン(シュー・チョン)、ハイイエン(アイ・リーヤー)の夫婦には、たまたま同じ生年月日の一人息子がいて、家族ぐるみの付き合いをしていた。
そんな時、ユーリンが第二子を妊娠したことが発覚するが、政府が一人っ子政策を推進する中にあって、夫婦は妊娠を隠し通すことにする。
ところが、工場で計画生育のリーダーを務める生真面目なハイイエンが気づいて、ユーリンは強制的に中絶手術を受けさせられ、もう二度と妊娠できない体になってしまう。
1994年。兄弟のように育ったヤオジュン夫婦の息子リウ・シンと、インミン夫婦の息子シェン・ハオはある日、川遊びに出かけ、水泳の苦手なシンが溺れ亡くなってしまう。
一人息子を失ったヤオジュンとリーユンは嘆き悲しみ、どうしても辛さを乗り越えられない二人は、全てを忘れようと住み慣れた故郷も親しい友人も捨て、遠く離れた町に引っ越していった。
2000年代に入り、田舎町で小さな工場を経営するヤオジュン夫婦は、養子を迎えることにし、その少年を亡き息子と同じシンと名づけた。
だが、16歳になったシンは反抗期の真っ盛りで、新しい両親に心を開かず、問題ばかり起こしていて、ある時、学校で同級生の持ち物を盗んだシンをきつく叱ったところ、シンは怒りを爆発させて家を出ていった。
2011年。ヤオジュン夫婦の同僚だったインミン夫婦は、その後、不動産で財を成して裕福になっていた。医者になった息子のハオは、母ハイイエンが余命いくばくもないことに気付き、本人も自分の死期を悟っていた。
死ぬ前にもう一度会いたいというハイイエンのたっての希望で、ヤオジュン夫婦の居場所を突き止め、故郷に帰るよう頼んで、ヤオジュン夫婦にとって久しぶりの帰郷が実現する。
ハイイエンは、リーユンにかつて堕胎を強制したことを詫びて亡くなった。
葬儀を終えた息子のハオはヤオジュン夫婦に、自分が川に誘い、自分のせいでシンは亡くなったと告白し謝罪した。
ヤオジュン夫婦はハオを責めることなく話を聞いていたが、その途中に、疎遠になっていたシンから電話がかかってくる。
彼は恋人を連れて帰ってきたという。長く続いた二人の苦労がようやく報われた瞬間だった。
《感想》1980年代以降の激動する中国社会を背景に、約30年にわたる二組の夫婦の歩みを描いている。
改革開放路線と一人っ子政策といった国策に翻弄された善良な夫婦は苦難にあえぎ、反対に変化の荒波を乗り切って富を得た夫婦は、その代償として重い罪を背負ってしまう。
その対照的な人生、一般庶民の喜びや哀しみを通して、現代中国の有り様や犯した過ちを見つめ直すというのが真意と思われるが、描かれる夫婦の心の痛みに溜息が出て、その思いが深く静かな余韻を残す。
本作を鑑賞して戸惑ったのは(1)時間軸の揺らしと、(2)あえて描かない、ことだった。
1)なぜ時間軸を頻繁に行き来させる構成としたのか。これは中国の厳しい検閲制度を意識してのことだと思う。
一人っ子政策の闇を描くという政治性を持ちながら検閲を通ったのは、普遍的な人間ドラマとして共感を呼ぶ優秀作だから、と見ていいと思うのだが、「時間軸の揺らし」効果もあるのではないか。
時系列で描けば明確な政策批判も、時間をシャッフルすることで原因と結果が分断され、時代の大きなうねりの中で因果関係が曖昧になって、主張を和らげているような気がする。
天安門事件(’89年)に触れないのも“配慮”だろうし、このバランス感覚がまだ中国映画には求められているようだ。
2)同僚インミンの妹でヤオジュンを慕うモーリーが、ヤオジュンの子を妊娠したことを告げてアメリカに渡るが、その子が「養子のシン」であるのか否かは明かさないままだった。
また、ヤオジュンの浮気に感づいた妻リーユンが離婚をほのめかし、自殺未遂を図るがその後は描かれない。
あえて謎に包んだままというのが“中国風”の描き方なのかも知れない。
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