『コロンバス』コゴナダ

モダニズム建築の映像美に酔う

《公開年》2017《制作国》アメリカ
《あらすじ》インディアナ州コロンバンはモダニズム建築で有名な街。そこの図書館で働くケイシー(ヘイリー・ルー・リチャードソン)は、正式な図書館司書になりたいと思う一方、惹かれているモダニズム建築のガイドの勉強をしている。
ある日、ケイシーは一人の男性から煙草を求められ、前日病院で見かけたことから話をするが、それがジン(ジョン・チョー)だった。彼はソウルで翻訳の仕事をしている韓国系アメリカ人で、建築学者の父親が倒れたという知らせを受け、この地に来ていた。
ケイシーは、彼の父親の講演会に毎回通うほどこの街の建築が好きで、建築に興味がないと言いながら豊富な建築の知識を持っているジンを、有名な施設へと案内する。
ジンは、ケイシーのガイド的知識よりも、建築の何に感動したのか、その理由を知りたがった。彼はある建築家の言う「建築には人を癒す力がある」と考えているようだった。
そんな流れで二人は自身の境遇を語り始める。ケイシーは母と二人暮らしで、母はかつて覚醒剤中毒で苦しみ、今は克服して働きに出ているが、母が心配で自身の夢を諦め、母に付き添う日々を送っている。
一方のジンは、父からの愛情を受けずに育ち、そんな父のために仕事を犠牲にしてまで付き添うことは理不尽、と葛藤していた。
ケイシーは以前、有名な建築家からその勉強熱心さを買われ、彼の大学に来ないかと誘われたことがあると話す。ジンもそうすべきだと言うが、母を置いては行けないとケイシーは首を横に振る。
父親が合併症を起こして危篤との知らせが入り、ジンは父の助手エレノアと病院に向かう。危篤の状態が続けばソウルには帰れず“父の死を待っているかのよう”な自分に苛立つジンだったが、かつての初恋の女性エレノアに慰められ、「最期を看取ってあげるべき」と諭された。
ある夜、二人で街を散歩していて、ケイシーは母親が夜間しているという清掃の仕事場を覗き、母の嘘に気付く。まだ薬物と手が切れていないのか、娘への負い目からの逃避か、二人の共依存のような関係がそれを助長させていると考えたケイシーは母と離れることを決意する(※語られていないので想像による解釈です)。
苦労をかけたことを詫びる母に、それを優しく否定するケイシー。二人は泣きたい気持ちを抑えながら最後の夜を過ごした。
ジンはこの街にアパートを借りて、しばらくは父の傍にいることになり、ケイシーがエレノアと共に街を離れるその日、心配から涙顔のケイシーにジンは励ましの言葉をかけて見送った。

《感想》高名な建築学者の父を持ちながら、愛情を受けずに育った中年のジンは、父の最期を看取ることにわだかまりが拭えず、薬物中毒の母を持った19歳のケイシーは母の世話に身を砕き、建築を学びたいという夢との狭間で葛藤していた。
そんな二人が、街のモダニズム建築物を巡り、その魅力を語り合いながら、親子の確執を見つめ、家族のあり方を考え直していく。
監督は小津作品に傾倒しているというが、テーマや物語の構造は通じるものがある。
子どもは成長して親から巣立ち、親は寂しさを抑えてそれを見送る、あるいは世を去っていく。当たり前の人生の機微だが、誰しもが遭遇する葛藤で目新しさはなく、本作でも淡々と描かれている。
ややメリハリに欠けるが、地味で静謐な演出には好感が持てる。
そして、強く目を引くのは映像の見事さで、固定カメラによるこだわり抜いた構図は、静かな佇まいの中の“癒し”を見せてくれる。
だが、モダニズム建築の機能美を完璧に描こうとする姿勢が前面に出て、肝心のドラマとうまく溶け合っていたかというと、やや心もとない。
建物のカット割りに支配されているかのようなドラマ展開と、映像だけでは感情が伝わり切らないもどかしさ(※)を感じた。
監督は韓国系アメリカ人で、これが長編デビュー作。詳細は不明だが、これだけの映像が撮れる映画作家だから、次作に期待したい。

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投稿者: むさじー

名画座通いの昔からネット配信の現代まで、温故知新、共感第一、ジャンル無節操、が映画選びのモットーです。 心に響くドラマを求めて、映画の中の人生をあちこち旅しています。