人は生きやがて死ぬ、静かな諦念
《公開年》2011《制作国》ハンガリー
《あらすじ》風の吹き荒れる荒野に住む高齢の農夫(デルジ・ヤーノシュ)とその娘(ボーク・エリカ)。二人の6日間の暮らしが描かれる。
1日目:仕事をして馬車で帰った農夫を娘は出迎え、いつも通り馬具を外して馬を小屋に入れ、右手が不自由な農夫のために娘は着替えを手伝う。
娘はジャガイモを茹でて食卓に運び、農夫に声をかけて、二人して黙々と食べ、娘は皿を洗う。
夜になるとランプの灯りだけの薄暗い中で、火種を絶やさないようかまどに薪をくべ、ランプを消した真っ暗な部屋で、風の音を聞きながら眠りにつく。
2日目:朝、娘は近くにある井戸に水を汲みに行って、バケツ2杯の水を家に運び、農夫は仕事着に着替え終わると、バーリンカという酒を2杯飲む。
農夫と娘は馬を荷車につなぎ仕事に出ようとするが馬が動こうとせず、いくら叩いても動こうとしない馬に、出かけるのを諦めて馬を小屋に戻す。
農夫は左手で薪割を始め、娘は洗濯をしてジャガイモを茹でる。1日1回の食事を終えると男の来客があり、バーリンカを分けて欲しいと言う。
男は、「世の中変わった。人間は堕落した。この世はもうダメだ」と嘆くが、農夫は「くだらん」と吐き捨てるように言って帰らせた。
3日目:風がさらに強まり、馬の食欲がなく仕事に行けそうにない。父娘が馬小屋の掃除をして、茹でたジャガイモだけの食事をしていると、数名の流れ者らしき者たちを乗せた馬車が訪れ、井戸を開けて勝手に水を飲み始めた。
追っ払おうと出て行った娘に彼らは、「一緒にアメリカに行こう」と誘い、手斧を持って出てきた農夫に追い払われる。悪態をついて去るが、娘にくれた1冊の本を読むと、「聖なる教会は踏みにじられた」と記されていた。
4日目:井戸に異変が起きた。理由はわからないが、一夜にして井戸が干上がっていた。また、馬が餌を食べず水も飲まなくなっていた。
井戸が枯れてしまったこの土地を離れる決意をして、荷物をまとめた親子は荷車を引き、馬を引いて出発するが、しばらくすると帰ってきた。ここを出たところでどうにもならないと気づいた。
5日目:いつも通り目覚め、馬小屋に行くと、馬は生気を失い悲しげな目でじっと立っている。農夫は窓辺の椅子に座ってうつむき、娘は静かに裁縫をして、今日もジャガイモの食事をする。
夜、油は満たしたのにランプに火が点かず、かまどの火種も消えてしまう。
6日目:薄暗い室内で食卓につくが、娘の食欲は失せ、ジャガイモを茹でる水も火種も無くなった家での暮らしに、農夫の絶望はより深くなっていく。
《感想》荒野に住む貧しい父娘と疲れ切った馬の最後の6日間。無言のまま繰り返される日常を、セリフもナレーションもほとんどなしに、長回しで淡々と描いている。
本作の長回しは、他に例を見ない程の長さで、ビデオ鑑賞なら早送りしたいところだが、辛抱すれば発見があるはず。
登場人物の歩みに視線を合わせることで、同じ空間にいるようなリアリティが生まれ、まるで二人の暮らしを覗き見ているかのような世界に惹き込まれる。
結構、我慢を強いられるが、一方で映像世界の醍醐味とか深遠さに触れたような気もするし、カメラを見据える目に気迫を感じる、そんな不思議な力を持った作品である。
そして明確なメッセージを避けているので、多様な解釈を許している。
ニーチェ哲学に関する深い理解はないので、映画のごく表面的な受け止め方になってしまうが、人の営みは日々同じような繰り返し、それでも少しずつ変化していて、徐々に人は力を失い、やがて終わりを迎える。自然の摂理で、そこに神の力は及ばない。そんなところか。
ニヒリズムとか終末論という解釈もあるだろうが、むしろ静かな諦念を持って受け入れるべき人の最期を、監督は最後の作品で残したものと思う。
退屈に過ぎないか、深いと見るかも観客次第である。
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