生きる意味、魂の救済とは
《公開年》2010《制作国》メキシコ
《あらすじ》冒頭、ウスバル(ハビエル・バルデム)が娘アナ(アナー・ボウチャイブ)に指輪の話をし、続いて冬の森の中、謎の若者がウスバルに尋ねる「フクロウは死ぬとき毛玉を吐き出すのを知っているか」。
舞台はバルセロナの貧困地区。ウスバルは中国の不法移民に偽のブランドバッグを作らせ、セネガルの不法移民に違法な路上販売をさせていて、更にセネガル人は麻薬の売買にも手を染めていた。
また、ウスバルには死者の言葉を聞き取るという不思議な能力があって、葬式で死者の霊と話して、それを遺族に伝え、死者が安らかに旅立てるよう手助けをしていた。
ウスバルの元妻のマランブラ(マリセル・アルバレス)は、双極性障害を患い、加えて薬物依存のため、娘アナと息子のマテオは彼が育てている。
近ごろ血尿に悩まされていたウスバルは、病院で検査をすることになり、その結果は前立腺がんの末期で既に転移していて、余命2か月と宣告される。
自分の死後、子どもたちの面倒を見てくれる人が必要なウスバルは、元妻のマランブラとヨリを戻そうと思い近づくが、彼女の精神状態は相変わらず不安定で、幼く聞き分けの無いマテオには手を挙げ、育児放棄する様を見て、ウスバルは途方に暮れた。
一方、違法販売に対する警察の取り締まりが厳しくなって、セネガル人らが捕まって強制送還になり、送還されたセネガル青年の妻イへとその赤ん坊のために、ウスバルは自分の住まいを提供し、自分たちはマランブラの家に移った。だが、マランブラと再び破局したため、イへたちと同居することになる。
また、セネガル人の強制送還は中国移民の仕事にも打撃を与え、そこでウスバルは彼らに建設現場の仕事を紹介し、地下室に雑居の形で住まわせた。
ところが、調達した暖房機が安い粗悪品だったため、一酸化炭素中毒で20名以上もの労働者が亡くなり、中国人元締めのハイは事故を隠滅しようと死体を海に捨て、翌日浜に打ち上げられて大騒ぎになる。
ウスバルにとって終わりの時は近づき、体は弱っていく一方だが、結局子どもを託せる人は見つからず、同居生活で子どもと打ち解けてきたイヘに、当面暮らせるだけの大金を強引に渡して子どもたちのことを頼んだ。
イへはその金を持ってセネガルに帰ろうと駅まで行くが、そこで思いとどまってアパートに帰ってくる。
ウスバルの命の火はいよいよ燃え尽きようとしていて、アナのベッドで寄り添い、冒頭のウスバルの父が母に贈ったという指輪をアナに渡す。父の死を予感したアナはそれを受け取るが、二人のベッドの傍らには既にウスバルの霊(?)が佇んでいた。
ウスバルの意識は遠のき、いつしか雪の森にいて、フクロウについて話す若者は実はウスバルの亡き父親だった。父親の後に続くウスバルが「向こうには何が……」と語りかけてエンド。
《感想》裏社会に生きる男が末期がんで余命いくばくもないことを告げられ、迫りくる死の恐怖に怯えながら、貧困にあえぐ不法移民の暮らしと、愛する子どもの今後を憂えて奮起する、その壮絶な生き様を描く。
こんな男の死に救いはあるのか? 映画のエンディングははっきり物語っていない。
映画は「フクロウは死ぬとき毛玉を吐く」という言葉で始まり閉じるが、毛玉とは何か。鳥の場合はぺリット(未消化物)の意味らしいから、人間なら「人生で犯しながら償っていない罪」のようなものか。死に臨んで全て吐き出し浄化される、という意味かと勝手に解釈した。
霊能者でもある主人公の心の中には、亡き父が待つ“来世”があって、失敗続きの悲惨な人生だったが、恵まれない母子のために力を尽くし、望む形ではないにせよ子どもを他者に託し、散々な責苦を受けたのだから、魂は浄化されて安らかに旅立ち、救われたものと思いたい。
また、黒澤明『生きる』へのオマージュ的作品とあるが、死を前にして何を為すべきか葛藤し、生き直そうと努めた男の物語でもある。
謎に満ちていて理解を超えるところもあり、暗く重い気持ちにさせられるが、鑑賞後にあれこれ逡巡させる濃密な力を持った映画である。
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