『残菊物語』溝口健二 1939

新派悲劇が感動を呼ぶ溝口ワールド

残菊物語

《あらすじ》尾上菊之助(花柳章太郎)は養子ながら、五代目菊五郎(河原崎権十郎)の後継者として舞台に立つが、人気はあるものの実力が伴わず、芸の道の厳しさに直面していた。
そんな時、義弟の若い乳母お徳(森赫子:かくこ)から、音羽屋の後継として芸の道を忘れないようにと、控えめで心のこもった忠告を受け、菊之助は思い上がっていた自分の不覚を悟って芝居に身を入れるようになり、二人の間にいつしか恋心が芽生える。
やがて菊之助とお徳の仲が噂になるが、この身分違いの恋は認められずに突然お徳は暇を出され、菊之助はお徳との結婚を望むも許されず、心の拠り所を奪われ反抗した菊之助は家を飛び出してしまう。
菊之助は一人、親戚筋に当たる大阪の尾上多見蔵一座を頼って旅立ち、一年後にはお徳が菊之助の元を訪れて、小さな借間ながら晴れて所帯を持った。
ところが頼りにしていた座長・多見蔵が死ぬと、評判の芳しくない菊之助は役を追われ、途方に暮れて地方回りの一座に加わり、お徳と共に放浪の旅をすることになる。
そして4年、菊之助は芸より遊びというすさんだ暮らしから抜け出せず、この旅回りの一座も解散となって小屋から追い出されて、二人は名古屋に流れ着き、泊まるのは木賃宿の大部屋で、更にお徳は胸を病んでいた。
そこへかつて菊之助と仲の良かった中村福助(高田浩吉)の一座が、名古屋巡業公演で来ていることを新聞で知る。
今さら頼る訳にはいかないと菊之助が渋るため、お徳は一人で福助を訪ね、菊之助の復帰を懇願するが、福助の叔父から「成功したら別れて寺島家に戻す」という条件が言い渡され、芸の世界には家柄が大事と、その条件を呑んだお徳だった。
公演は大成功を収め、菊之助を含む一座は東京に戻る列車に乗り込むが、そこにお徳の姿はなく、福助に託されたお徳からの手紙を受け取る。
それには、出世の妨げになりたくないというお徳の気持ちが綴られ、周囲の「苦労したお徳に報いるためにも帰れ」の説得に菊之助は折れて東京へ、お徳は一人でかつて菊之助と暮らした大阪の借間に戻った。
やがて菊之助は役者として大成功を収め、菊五郎の大阪初下りの日、菊之助は病床に臥せているお徳を訪ねる。
その日、菊五郎から「今日の主役は六代目になるお前だ。女房に会って来い」と許す旨の言葉をもらい、それを聞いたお徳は素直に喜ぶが、病状が悪化した身にとって、もう思い残すことはない、という気持ちもよぎっていた。
お徳の強い勧めに従って晴れの船乗り込みに臨み、舟の舳先で挨拶を繰り返す菊之助だったが、その間にお徳は息を引き取っていった。



《感想》人気はあるが芸は未熟な歌舞伎役者と、それを支える奉公女の許されぬ恋。そこには単に男と女の色恋だけでなく、芸の厳しさに道を踏み外す男の弱さと、陰で献身的に支える女の愛と意地があった。
この意地を貫き通す女の強さこそ、後の溝口映画で描かれる女性像の原点なのだろう。
悲劇で幕を閉じるが、女からは一人の男を愛し通して燃え尽きた満足感のようなものが伝わってくる。そして、その女性像に対する監督自身の思いもまた伝わってくるのである。
いかにも新派悲劇風物語だが、それを溝口監督は独自の1シーン1カットの長回しで情感豊かに描き、二人の濃密な世界を作っていく。
溝口演出は、主人公に特別な感情移入をすることなく、客観的な距離や視点を保ったまま、登場人物と観客とが数分間の1シーンを共にする、物語の中に入り込むようなこの感覚はなかなか得難いものである。
この撮影スタイルには監督の強いこだわりと執念が込められているようで、ただただ圧倒された。
デジタル修復化されたと言っても、映像、音質共に十分とは言えないが、映画史的な価値だけでなく、映画的快楽と感動を求めて観る価値のある作品である。

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投稿者: むさじー

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