『カビリアの夜』フェデリコ・フェリーニ

純な娼婦は信じるまま生きて

カビリアの夜

《公開年》1957《制作国》イタリア
《あらすじ》ローマの郊外で娼婦をするカビリア(ジュリエッタ・マシーナ)は、気性はやや荒いが、心は純粋無垢で優しく、人を信じやすかった。
だから男に引っ掛かり、お金を騙し取られることも珍しくなかった。
小さいながら住む家を持ち、近くには街娼仲間のワンダ(フランカ・マルツィ)が住んでいる。
ある日、カビリアはいつもと違う、少し高級な街並みの通りに立ち、少し期待しながら待つと、恋人と喧嘩別れしたばかりの映画スターに声を掛けられ、高級ナイトクラブで夢心地を味わう。
そして彼の豪邸に連れて行かれ、豪華な料理にありつくが、映画スターの別れたはずの恋人が突然訪れ、バスルームに追いやられたカビリアは、そこで一夜を過ごし、翌朝追い出された。
ある時カビリアは、ホームレス暮らしの人たちに施しをする一人の男性に遭遇し、何の見返りも求めない、純粋な奉仕の気持ちに心打たれる。
そして仲間に誘われ聖母マリア寺院の参拝に付き合うが、大勢の貧しい人たちの賑わいだけで、そこに救いは期待できないと、カビリアは失望した。
そんな折、ふらりと立ち寄った劇場で、カビリアはオスカー(フランソワ・ペリエ)という男性に声を掛けられる。
会計士をしているというオスカーは、なかなか心を開かないカビリアに、積極的にアタックし、デートを重ねるうち、カビリアの警戒心も薄れていった。
当初は売り子と言っていた職業も正直に打ち明け、それすら受け入れてくれたオスカーからプロポーズされ、カビリアはそれを受けることにした。
過去を捨て、オスカーと新たな人生を歩もうと決めたカビリアは、必死で手に入れた我が家と家財道具を売り払い、親友ワンダに別れを告げ、全財産を手にオスカーの元に駆け付ける。
そしてオスカーと二人、崖からの美しい夕陽を眺めるが、いつもと違うオスカーの眼差しに気付くカビリア。オスカーもまた、今までの男たちと同様にお金目当てだった。
全てを悟ったカビリアは、絶望してオスカーに言う「私を殺して!」と。オスカーにその度胸はなく、お金だけ奪って逃げ去った。
何もかも失い、呆然と歩くカビリアだったが、たまたま陽気な音楽を奏でるカーニバルの一行が通りかかる。
何も知らない若者らは、彼女に笑顔で歌いかけ、一度は絶望したカビリアも、涙を流しながら笑顔を浮かべてエンド。



《感想》ヒロインのカビリアは、3年前の『道』(1954年)のジェルソミーナに共通するキャラで、フェリーニがいう「不器用で、滑稽で、とても優しい道化の女性」である。
この女性像で描くのは「聖女」であり、『道』のジェルソミーナは敬虔なクリスチャンであるが故に、ザンパノの殺人を目にして自ら正気を失い、ザンパノの良心に訴えて懺悔を誘うという、キリスト教に根差したヒューマニズムを謳っている。
しかし本作のカビリアの描き方は異なる。
自らの将来を暗示するような、ホームレス老婆に施しをする男性の無償の行為に感動しながら、訪れた寺院参拝では、集団的熱狂の場にしか感じられず、利益や救済は得られないと失望している。
宗教には惹かれるが疑念が消えない。それは最後にオスカーが懺悔することもなく逃げ去り、その後が描かれないことにも表れていて、本作では宗教色がやや後退していることが窺える。
ところで、エンディングでカビリアが見せる「涙ながらの微笑」の意味は何か。
表面だけ見れば、若者たちの楽し気な音楽や踊りに、お金では得られない生きる喜びを見出し、励まされ立ち直るという解釈が一般的だろう。
だが奥底に宗教的救済を秘めていたフェリーニとしては、奪って逃げた悪党オスカーに対して施しを与えた、騙され続けたカビリアはそう思い直し、施しの喜びから生きる希望を取り戻した、という解釈もできるのではないだろうか。

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投稿者: むさじー

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