核の恐怖を無言で訴える鮮烈な映像詩
《公開年》2015《制作国》ロシア
《あらすじ》広大な草原に孤立して建つ一軒家。そこに少女ディーナ(エレーナ・アン)と父親トルガト(カリーム・パカチャコフ)が住んでいる。
軍の小型飛行機に乗せてもらって子どものようにはしゃぐ父だが、普段は娘に足を洗わせるほど厳格な父でもある。
少女は父に車の運転を習っていて、父のトラックでいつもの分かれ道まで来ると、そこでトラックを降りて父を見送る。しばらく歩くと馬に乗った若者ケイシン(ナリンマン・ベグブラートフ=アレシェフ)が現れ、少女を家まで乗せて帰り、お礼に水をもらい去って行った。
ある日、家の前に1台のバスがエンストして止まり、ロシア風の若者マックス(ダニーラ・ラッソマーヒン)が水を貰いに訪れ、マックスは少女の写真を撮って帰る。
その夜、マックスは少女の家に再び現れ、家の壁に少女の写真をスライドで映写し、少女を喜ばせた。
父が酔ったように帰宅した激しい雨の夜、数名の軍人が少女の家を訪れ、父を外に連れ出して全裸にし、探知器で検査をして帰る。
父は翌日さらに体調を崩し、少女はライフルを空に向かって撃ちケイシンに助けを求めて医者を呼び、そのまま父は医者の車で連れていかれた。
不安そうな少女をケイシンは優しく抱き締め、その様子を窓の外からマックスが見ていて、二人は取っ組み合いの喧嘩を始め、少女に仲裁される。
しばらくして父は戻ってくるが、回復せずに亡くなり、草原に埋葬された。
少女はトランクに身の回りの物を詰め、一人トラックで草原の彼方に向かうが、トラックがエンストし、行く先は鉄条網で遮られ、やむなく家に戻ると、そこにはケイシンとその家族らしき人たちが待っていて、ケイシンは少女と結婚する準備をしていた。
少女は長い髪を切るとマックスと共にケイシンの前に現れ、マックスとケイシンはバイクで草原に向かう。
そこでケイシンはバイクから降ろしたマックスを何度も轢こうとするが、結局出来ず、少女を奪われたケイシンは涙を流し、マックスは傷だらけで少女の元に戻った。
その夜、マックスは少女の家に泊まり、一夜を共にする。
翌日、穏やかな時間を過ごす二人だったが、突然遠くで爆弾が投下され、きのこ雲が広がり、爆風が迫ってきた。
ケイシンはバイクでその爆風の中に突っ込んでいき、マックスと少女はなす術がなく手を取り合って爆風に飲み込まれていった。
その後は家も人も何もかもが失われ、一旦昇りかけた太陽が、その日は昇り切ることなく沈んでいって、エンド。
《感想》カザフスタンあたりと思われるが、場所も時代も設定せず、セリフも排除し、登場人物の名前も映像には出てこない。
映像と音だけという“実験作”である。
草原の平和な暮らしの中、少女を巡る若者二人の恋模様で展開するが、父娘の住む家は被爆の影響から捜索を受け、核施設に勤める(?)父が入院し死亡する。そして恋人たちの幸せな時間が始まろうとした矢先、核実験によって何もかもが失われる。
本作のベースは1949年、旧ソ連のカザフスタン核実験で、一帯が無人という偽りの主張で行われ、そこに生活する多くの人命を奪ったという。
核実験の脅威は、人間の欲望がもたらした最大の暴挙であり、それによって恋人たちの未来が奪われることはおろか、人類の滅亡さえ危ぶまれる。
監督は言う「他愛のない日常を描いて、それが永遠に続くものではないことを訴えたい」と。
また、新藤兼人『裸の島』の影響を受けたと明かしている。
大草原を舞台に描くその映像美は圧倒的で、特に俯瞰ショットを多用した構図へのこだわりが凄い。
ただ、羊の意味するもの、娘はなぜ途中までしか運転しないのか、父親の被爆死を巡る背景など、言葉を排したがゆえに理解が曖昧になった点は不満として残る。
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