少年の眼差しで描く人生の切なさ、ほろ苦さ
《あらすじ》昭和31(1956)年の大阪。河口近くのしがない食堂の子、信雄(朝原靖貴)は父・晋平(田村高廣)、母・貞子(藤田弓子)と暮らしている。
ある日、馴染み客の馬車引きの男が店に寄った帰り、自分の馬車の下敷きになり圧死してしまう。
その残された馬車の側で、信雄は喜一という少年に出会った。
喜一は食堂の対岸に停泊する宿舟の子で、信雄と同じ9歳、姉の銀子は11歳で、二人とも学校には行っていない。
母親は生活のため舟で客を取っているという噂があるが、もちろん信雄に理解できることではない。
喜一と銀子が食堂に遊びに来たとき、客の間で“郭舟”と客引きをしているという喜一の噂話が出て、晋平は客を追い出したが、喜一は落ち込み、その場にいなかった銀子も喜一の様子から重い気持ちになる。
貞子が用意したワンピースを銀子は受け取らなかった。
ある日、晋平の“友達”が死の床にあり、晋平とその子どもに会いたがっていると聞かされ、信雄は晋平と共に京都に行き、その女性を見舞う。
実はその女性は晋平の前妻で、晋平には、戦地から復員した先で出会った貞子と所帯を持ち、前妻を捨てたという過去があった。
両親は共に罪の意識を背負っていて、貞子は泣きながら前妻に詫びた。
ある日、信雄が舟を訪ねると喜一も銀子も不在で、奥の部屋にいる母親・笙子(加賀まりこ)に呼ばれる。
信雄は、自分の母親とは全く違う、匂うように艶やかな佇まいの女性を前にして何故か落ち着かなかった。
天神祭りが開かれた日、信雄と喜一は貞子から小遣いを貰って出かけたが、多くの露店に目移りして、いざ買おうとしたら、破れたポケットからお金を落としていて、二人はガッカリして帰途に着く。
その夜、信夫は舟に寄り、喜一から宝物にしている蟹の巣を見せられる。
喜一は水中の竹箒に住みついた蟹を落として、蟹を油に浸し、火をつけて燃やすという残酷な遊びを始める。
火のついた一匹が奥の部屋の方に逃げていき、追いかけた信雄は小窓から部屋の中を覗いてしまう。
そこには刺青の男と笙子の姿があり、笙子と目が合った。
信雄は気まずさから喜一と言葉を交わすことなく舟を去り、途中ですれ違った銀子にも無言のままだった。
翌日、舟は曳航されて岸から動き出した。
それを知った信雄は外に飛び出し、喜一の名を叫びながら舟を追うが、追いつけず舟は遠ざかって、エンド。
《感想》終戦から10年余、「もはや戦後ではない」と言われながら、戦争の傷跡が残り、まだ「戦後」を引きずっていた時代。戦争をくぐり抜けた男が、思いがけない唐突な死を迎え、死はいつも身近に存在していた。
食堂の夫婦は戦後混乱期の過ちから罪の意識を背負い、9歳の子どもは高らかに軍歌を歌い、その姉は米びつに手を入れて「ぬくい」と言う。
河岸生活者の貧しい暮らしが描かれ、登場人物はみな優しい。
泥の河に住む“お化け鯉”は何を意味するのか。
人を引き込んで食べてしまうという“死を招く”存在なのか、それとも郭舟の娼婦のように、人目を忍んで“生きている”象徴なのか。
少年が思いがけず覗いてしまった大人の世界。子どもに全てが理解できるわけではないが、その涙をためた眼差しは抗えない現実を直視し、理解しようとし、受け入れようとしている。
人生ははかなく、生きていくことは切ない。大人の現実に触れることで、初めてそのことを知る少年の目線で描き、少年らはこれからもきっと強く生きていけるに違いない、そう思わせてくれる。
ほろ苦いけれど、決して陰鬱なだけの映画ではない。
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