『判決、ふたつの希望』ジアド・ドゥエイリ

中東紛争の悲劇を市民の目で描いたレバノン映画

《公開年》2018《制作国》レバノン、フランス
《あらすじ》レバノンの首都ベイルートで自動車修理工場を営むキリスト教徒のレバノン人、トニー・ハンナ(アデル・マラム)は、身重の妻シリーンと暮らしていた。
ある日、住宅補修工事の現場監督をしているパレスチナ人、ヤーセル・サラーメ(カメル・エル=バシャ)との間で、バルコニーの排水管を巡る揉め事が起こり、ヤーセルがトニーに「このクズ野郎!」の罵声を浴びせたことから大事になっていく。
怒りの収まらないトニーは会社に謝罪を要求し、説得されたヤーセルは渋々謝罪に行くが、トニーの「お前らはみんな、シャロン(パレスチナ攻撃をしたイスラエル元首相)に抹殺されていれば良かった」の一言に怒ったヤーセルがトニーを殴り、肋骨骨折の大ケガを負わせてしまう。
トニーはヤーセルを告訴し、二人の争いは法廷に持ち込まれる。
一旦は証拠不十分で棄却されたが、妻が早産をして、これも全てヤーセルのせいと控訴し、双方が弁護士(これが父娘)を立てて控訴審が始まる。
裁判が進み、トニーがヤーセルに吐き捨てた言葉が明らかになると、レバノン人とパレスチナ難民の主張の対立が浮き彫りになって、マスコミは騒ぎ、いつしか国を二分する騒動へと発展する。
ヤーセルは勤務する会社を解雇され、一方のトニーは脅迫電話に追われるようになり、レバノン大統領直々の仲裁もうまくいかなかった。
裁判の中で、トニー側弁護士は彼が幼い頃住んでいたダムールでの虐殺事件とトニーの過去について語り始めた。
民族と宗教上の対立から内紛が絶え間ない中東だが、レバノン国民運動とパレスチナ民兵によって、ダムールのキリスト教徒500人以上が殺害されたその事件が起きたとき、6歳だったトニーは父に連れられて辛うじて生き延びた過去があり、弁護士はトニーもまた難民であることを主張した。
判決直前、ヤーセルはトニーの元を訪れ、わざと侮辱する言葉を浴びせて、激怒したトニーに殴られる。そしてヤーセルは「すまなかった」と謝罪の言葉を残してその場を去った。
そして判決。裁判長は被告ヤーセルに無罪を言い渡した。
これで世論を二分した論争はひとまず収束し、トニーとヤーセルの間のわだかまりも消え、互いに称え合うかのような表情を見せてエンド。

《感想》映画の原題は「侮辱」の意味。
レバノンを舞台に、レバノン人とパレスチナ難民の男が、ささいな揉め事を起こし、素直に謝罪すれば事なきを得たものを、法廷論争になり、マスコミ報道も手伝って、暴言と暴力の対立であったものが、まるで民族や宗教上の対立であるかのように様相が変わってくる。
判決理由は「暴言に対する暴力の行使は認められない。ただし、自尊心を傷つける程の暴言は暴行と同じ。よって、被告は無罪」というもの。
また、判決を迎える前に両当事者は既に心の内で和解していて、誰も傷つかない映画的収束を意識したハッピーエンドにはなっている。
しかし、制作者が真に伝えたかったのは、紛争で受けた市民の心の傷の深さと、先の見えない紛争終結への切なる願いではないだろうか。
冒頭、妻からダムールに移住したいという希望を聞かされ激しく拒絶するトニー、また裁判の過程でも、弁護人に指摘されるまで過去を隠し続けたダムールの忌わしい記憶こそ、この映画のメッセージではないか。
そして、物語上のささいな事件は無事解決するが、事件に端を発して浮上した民族や宗教上の対立は、現実にはその後も消えることなく残っていることに目を向けよ、ということなのだろう。

※他作品には、右の「タイトル50音索引」「年代別分類」からお入りください。

投稿者: むさじー

名画座通いの昔からネット配信の現代まで、温故知新、共感第一、ジャンル無節操をモットーに選んでいます。 何度も、観る度に感動する映画は大切ですが、二度と観たくない衝撃に出会うのも楽しみです。

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