小津調ではない家庭崩壊劇だが、最も“今”に響く
《あらすじ》銀行勤めの杉山周吉(笠智衆)には一男二女がいたが、長男は山で亡くなり、長女・孝子(原節子)は、大学教員の夫との仲違いから子どもを連れて実家に帰っていた。
次女・明子(有馬稲子)は英文速記の学校に通っているが、その明子には不良大学生の憲二という恋人がいて、憲二が出入りする麻雀屋の壽荘には明子を知るおかみさんがいた。
憲二を探しに来た明子とは知り合いになり、おかみは以前近所に住んでいたといい、明子の兄が亡くなったことを聞くと狼狽した。
実は明子は妊娠していて、そのことを憲二に話すが煮え切らない態度をとる。
ある日、明子の縁談を持って杉山家に来た周吉の妹・重子が、デパートで偶然に孝子たちの母・喜久子(山田五十鈴)に会ったことを話す。喜久子はかつて周吉が海外赴任中に、留守宅の世話をした上司の男と結ばれて家を出てしまっていた。
やがてその男は亡くなり、東京に引き揚げてきて、今は別の男と麻雀屋をやっていることが分かる。
そして明子から聞いたことがある麻雀屋のおかみが母の喜久子と知った孝子は、壽荘で母に会い、明子には母と名乗らないように言い渡す。
明子は産婦人科で中絶手術をしてもらい、憲二を探しに行った壽荘で、姉孝子の来訪を聞き、姉を問い詰めたところ、喜久子が明子の母であることを打ち明けられる。
周吉は実の父なのか、と疑いを持った明子は壽荘の母に会いに行くが、喜久子は周吉が実の父と断言する。
そして明子はやっと憲二に再会するが、相変わらず煮え切らない憲二に腹を立てて歩くうち、踏切で列車にはねられて亡くなり、死んだことを伝えるため壽荘を訪れた孝子は喜久子に「お母さんのせい」と言い去って行く。
喜久子は夫の廃業、再就職に従って室蘭に行く決心をし、花を持って杉山家を訪れた後、上野から列車で発つ。孝子は我が子のことを考えて夫の許に帰り、周吉は一人の暮らしになってエンド。
《感想》身勝手な母がいて、正しく賢く優しい父と姉がいて、自分の出生にまで疑いを持ってしまう妹がいる。妹は亡くなり、姉は子どものために夫の許へ帰ることを決意し、母は不本意ながら東京を去り、父は一人になって孤独な老後を迎える。
他の小津作品に流れる人生の哀愁のような世界とは全く異なり、ユーモラスなシーンはほとんど無くて、暗澹たる現実の日常が描かれ、これほどペシミスティックで未来に明るさが見えない作品はない。
当時の評判は芳しくなかったようだが、決して失敗作とは言い切れないとも思う。
当時の風俗を背景にそれぞれの「個」の世界が描かれて、必ずしも共感は得られないかも知れないが観る者の内奥に迫ってくるものがあるし、一つの家庭崩壊劇として今に通じるリアリティを持っている。
本作の前年には『早春』、翌年には『彼岸花』といういわゆる小津調の作品が作られ、その狭間に作られた本作が、なぜ深刻で悲劇的な異色作になったのか、気になるところではある。世評を受けての反動とか、自己世界からの脱却あるいは冒険とか、よく分からないが。
小津作品出演は本作のみという山田五十鈴が静かで圧倒的な存在感を示している。自分が捨てた娘との再会を素直に喜び、二人の子どもを亡くしては落胆し虚脱感に襲われ、東京を去る列車内から、もしかしたら娘が見送りに来るかもと探し続ける……親の思いを見事に表現している。このとき山田は40歳、原とは3歳違いというから見事な老け役であり、この演技は称賛に値する。
ちなみに山田は同年、黒澤明『蜘蛛巣城』でも発狂する妻役で迫真の演技を見せている。最も輝いていた時期かも知れない。
確かに暗くて救いのない物語だし、観終わった後に未消化の部分が頭の中で反芻しているような映画だが、楽天的に明るい映画とはまた違って、最も「今」に響く作品だと思っている。
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