『山猫』ルキノ・ヴィスコンティ

没落貴族の生きざまを、完璧な美の世界に描く

山猫

《公開年》1963《制作国》イタリア、フランス
《あらすじ》中世以降、小国に分裂していたイタリアに統一運動が起こり、その戦争最中の1860年春のこと。
シチリアの名家の当主で公爵のファブリツィオ(バート・ランカスター)は誇りある貴族として暮らし、その屋敷を甥のタンクレーディ(アラン・ドロン)が訪れる。彼はかつてのブルボン王朝側と戦った革命派で、新しい時代の波に乗るべくガリバルディの軍に合流していた。
ファブリツィオはそんな甥の将来に目をかけていたが、自分の娘コンセッタは彼に好意を寄せていた。ところが、新興ブルジョアの一人で市長のセダーラが一家の歓迎会を開き、その美貌の娘アンジェリカ(クラウディア・カルディナーレ)にタンクレーディが恋をしてしまう。
タンクレーディとの結婚を夢見ていたコンセッタは落胆するが、ファブリツィオの胸中は複雑で、娘の心の痛手は辛いものの、将来性のある甥には資産家との縁組が望ましいと考えていて、タンクレーディからアンジェリカとの結婚の仲人の依頼があると、それを引き受けた。
やがて統一されたイタリア王国建国とともにガリバルディの軍は解散し、タンクレーディは新政権の政府軍に合流していた。
ある日、中央の役人から、ファブリツィオを貴族院議員に推したいという申し出を受けるが、“自分は古い時代の人間”と固辞し、セダーラを推薦した。
近隣の公爵の屋敷で舞踏会が開かれ、タンクレーディとアンジェリカの結婚が祝福される中、アンジェリカの求めでファブリツィオはワルツを踊った。
かつては舞踏の名手であったファブリツィオのダンスは見事であったが、彼自身は何となくその場にそぐわない気がしていた。時代が変わり、それに付いていけない自分の老いと孤独を感じていた。
舞踏会が終わった明け方、家族を馬車で帰らせたファブリツィオは一人で街を歩き、空に輝く金星を見上げ、やがて来る自らの死に思いを馳せた。



《感想》時代が流れ、やがて滅びていくであろう貴族としての自分。時代の変化に迎合しない貴族としての矜持を持ち続けるファブリツィオが、強まる諦念の中で少しずつ死を希求していくデカダンスの世界を描いている。
その対極にあるのがタンクレーディで、時代の勢いに逆らわず、改革派になったり政府についたり。頼もしくはあるが、自分とは相容れない存在で、新時代は彼らのものとも感じている。
老いと若さという対比とともに、貴族階級と新興ブルジョワジーの心の内なる対立も描かれる。新興ブルジョアの令嬢アンジェリカとのダンスで、誰よりも輝いていた彼女と、それに打ちのめされてしまう老いた貴族の姿だった。
そんな思いがラストのファブリツィオの涙、死への憧れにつながっていく。
この対比を際立たせるランカスターの渋さと哀愁、ドロンのエセ眼帯の軽さと明るさ、カルディナーレの美しくも粗野な高笑い、みな素晴らしいハマリ役である。
加えて、セットから衣装、調度品まで本物にこだわるリアリズム志向と、絵画のような色彩と構図、やはりヴィスコンティの世界である。
それでもやや冗長には思えた。短縮版の方が集中できると思う。

※他作品には、右の「タイトル50音索引」「年代別分類」からお入りください。

投稿者: むさじー

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「『山猫』ルキノ・ヴィスコンティ」への1件のフィードバック

  1. 公爵は妻のヘソも見たことが無く、妻は木野戸前に十字を切り、絶頂でマリア様と叫ぶ.

    他方、新興成金の妻は、読み書きはもちろん、話もろくにできない、自分の娘をかわいがりもしない、まともな人間ではなかったが、ベットでは抜群だった.

    ベットでは最低の公爵の甥と、ベットでは最高の新興成金の娘の結婚の話です.

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