『羅生門』黒澤明 1950 

処世ゆえのエゴイズムと、善悪併せ持つ人の心の内を描く

羅生門

《あらすじ》荒れ果て崩れかけの羅生門で雨宿りをする杣売り(志村喬)、旅法師(千秋実)、下人(上田吉二郎)の三人の会話から始まる。それは藪の中の殺人事件である。
通りかかった武士(森雅之)と妻・真砂(京マチ子)に目を付けた盗賊・多襄丸(三船敏郎)が二人を襲い真砂を犯すが、その後、現場には武士の死体があるだけで真砂と多襄丸の姿はなく、武士の刀と真砂の短刀も消えていた。捕らえられた多襄丸、真砂が裁きにかけられ、巫女(死んだ武士の霊)と目撃者の杣売り、旅法師が呼ばれるが、証言が食い違っている。
多襄丸は「真砂が生き残った方に付いていくと言うから、武士と決闘して倒した。しかし真砂は逃げた」と言う。
真砂は「多襄丸が去った後、夫が自分を軽蔑の目で見ているので、殺してくれと懇願し、辛さで気を失っている間に短刀が夫の胸に刺さっていた。耐えられずに刺殺した」と供述した。
巫女による武士の霊は「強姦された真砂は夫を殺すよう多襄丸に懇願し、呆れ果てた多襄丸と真砂が姿を消した後、自刃した」と言う。
目撃者の杣売りは「強姦の後、多襄丸は真砂に妻になってくれと頼み、真砂はそれを断り、自分を軽蔑した目で見ている夫の縄を解き、生き残った方の妻になると二人を争わせた。多襄丸が勝利したが、真砂はどこかへ逃げてしまった」と言う。
そこまで話を聞いた下人が「武士の刀と妻の短刀はどうなった?」と杣売りに訊ね、実は杣売りも自分が刀を盗んだ事実を隠していたことが分かる。すると捨てられた赤ん坊の泣き声がし、下人は赤ん坊の衣類を盗んで立ち去ってしまう。杣売りは「何人育てるのも子育ては一緒」と赤ん坊を引き取ることにし、旅法師はこの行いに感動し、赤ん坊と羅生門を去る杣売りを見送りエンド。



《感想》三人三様、自分に都合のいいように事実を曲げ、人を欺く。事件のあらましは杣売りの通りなのだろうが、その杣売りも自分のやましさは隠していた。そこで捨てられた赤ん坊に気付き、産着まで盗もうとする下人の行いに怒る旅法師だったが、杣売りの決意に自分を恥じ、人を信じる希望を見出す。酷いことをするのも人間なら、善行を施すことが出来るのも人間、そんな人間の複雑さに改めて思いを巡らす。
原作の芥川龍之介が「藪の中」「羅生門」で描いた「当事者・目撃者が自分に都合のいい証言をするため真相が見えない心理ドラマ」と「生きるための悪という人間のエゴイズム」という二つのテーマを巧みに織り交ぜ、完成度の高い映画作品に仕上げた見事な脚本(黒澤と橋本忍)である。
撮影・宮川一夫はモノクロの美を極めていたし、早坂文雄のボレロ調の音楽も緊迫感を大いに盛り上げている。

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投稿者: むさじー

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