『全身小説家』原 一男 1994

「嘘」に込められた井上文学の真実を追う

《あらすじ》井上光晴の晩年の5年間を追ったドキュメンタリー。井上は92年没(66歳)、登場する埴谷雄高は97年没(87歳)。「全身小説家」とは埴谷が井上を評した言葉で、「存在そのものが小説家、骨の髄まで小説家」の意味とか。
井上が作った「文学伝習所」、そこでの講義や講演が描かれている。その井上が89年にがんの告知を受ける。生前の井上ががんと闘いながら講演と創作に励む姿が描かれ、死後、彼の経歴を調べ直した結果、今まで彼が述べてきた経歴や生い立ち、初恋の人のことなど全て虚構だったことが明かされる。
そもそも私小説を否定する立場にあったし、「小説に書いたこと=実話」とは解さないが、自分の経歴まで詐称し、それを死ぬまで貫いたということは、まさに「全身小説家」といえよう。

《感想》戦後を全力疾走で生き抜いた作家がその文学精神を次世代に繋ごうとする姿は熱く、ときには大人気ないと思われるほど激昂する場面がある。いわゆる小説の書き方講座とか文学論というのではなくて、もっと精神論とか人の生き様とかを説く場であったのだろう。
井上の「嘘」を追う中で、それを証言する同郷の人たち、埴谷、恋愛関係にあって、それを清算するために出家していながら、死ぬまで友人として付き合った瀬戸内寂聴、皆その眼差しは温かい。叱責され罵倒される伝習所の人たちも決して離れようとしない。井上の文学への情熱に裏付けられた、人間の魅力や大きさが窺える。
映画の中で井上が「連続する出来事(ノンフィクション)の一部を選んで表現すれば、それはフィクションだ」と説く場面があるが、原自身もドキュメンタリーを作る立場で共鳴するものがあったのだと思う。生前の井上を撮りながら、文学者井上の壮絶な最期で終わるはずだったものが、女性関係の暴露、生い立ち、経歴の嘘など新たな事実に遭遇し、ドキュメンタリー作家として、全体を編集し直す必要に迫られたのではなかろうか。(1)井上自身が説く私と文学、(2)周囲の人たちの証言で明らかにされる嘘、(3)がんの進行で死に近づいていく現実、これらが三つ巴で混沌とした形で描かれる。
多分生前の井上が意図したドキュメントにはなっていないと思えるし、原が持つドキュメンタリストの業であり、編集のワザでもある。悪意という意味ではなくて、井上の人間性とか生き様(悪く言えば品位の無さ、言い換えれば無頼)を露呈させる力を持っているし、井上にはそれに拮抗するだけの、いやそれを超越した揺るぎない自尊心とカリスマ性があったといえる。
新興宗教の教祖と、信者に近い関係性の取り巻きの人たちが、本気でぶつかり合っている姿がおかしくもあり、ときに切なくもあり、こんな信頼関係もあるのかと不思議に納得させられる。

※他作品には、右の「タイトル50音索引」「年代別分類」からお入りください。

投稿者: むさじー

名画座通いの昔からネット配信の現代まで、温故知新、共感第一、ジャンル無節操をモットーに選んでいます。 何度も、観る度に感動する映画は大切ですが、二度と観たくない衝撃に出会うのも楽しみです。

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