任侠ものと思いきや、様式美に満ちた究極のメロドラマ
《あらすじ》渡世人沓掛時次郎(中村錦之助)は、助っ人稼業に嫌気がさしながらも、またしても草鞋を脱いだ先で助っ人を頼まれ、相手は落ち目の六ツ田の三蔵(東千代之介)だった。時次郎は三蔵を倒すが、三蔵は死に際に、女房おきぬ(池内淳子)と子どもの太郎吉を、伯父の元に届けてくれるよう頼んで息を引き取った。
三人の苦しい道中が始まるが、夫の仇と知っているおきぬは憎みながらも時次郎の優しさに魅かれ、時次郎もまた秘かに愛を募らせていった。二人を伯父の元に送り届けてみると、伯父は生活苦から他界していて、時次郎は身寄りを失った母子に「自分の故郷、沓掛に行こう」と誘う。時次郎と旅をするうち、おきぬは時次郎への恋心と亡き夫への思いの板挟みを苦にして、時次郎の元から姿を消してしまう。
それから1年、宿場で角付けをする母子と再会する。おきぬは肺を病んで床に伏し、薬代稼ぎに時次郎は、再び喧嘩の助っ人を買って出た。医者に行くと偽って時次郎は助っ人仕事に臨み、めでたく勝利を収めたものの、おきぬの元に戻ったとき、おきぬは既に亡くなっていた。時次郎は、今度こそ刀を捨て、残された太郎吉とともに生きていこうと、故郷の沓掛に向かった。
《感想》冒頭、時次郎の舎弟分、身延の朝吉(渥美清)の仁義を切る口上から始まるが、この映画の3年後にスタートする「寅さん」のテキ屋の口上にそっくりで驚いた。
一宿一飯の義理で意に沿わない殺しをして、残された妻子の面倒をみることになり、その女房との間に愛が芽生えたが病で死去し、刀を捨て、足を洗って子どもとともに生きていくという、股旅物のストーリー。
ローアングル、長まわし等、加藤泰美学は随所に見られるが、チャンバラ映画の枠を超えた様式美に満ちていた。母子が出て行って1年、雪の降る夜、時次郎が居酒屋の女将に、別れた女との身の上話をするシーン(舞台演出のような見事なライティング)。それに続いて、角付けをする母子と雪景色の中で再会するシーンが特に印象に残り、涙腺が緩む。
本作が名作たる所以は、メロドラマとしての完成度の高さである。二人の間にある葛藤や矜持、立場をわきまえた大人の意地、そんな心の通い合いが切なさを一層際立たせる。
この映画が作られた時代は、時代劇が衰退する一方で、現代やくざ映画が台頭しつつあり、錦之助の時代劇への強い思いと希望から、二つの性格を持った「任侠もの」として企画されたという。類型的なストーリーの中で、際立った人間ドラマを構築した傑作である。
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